〈不可能〉の限りで 公演情報 SPAC・静岡県舞台芸術センター「〈不可能〉の限りで」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    観てきました。そして静岡で美術館めぐりをして、いま、東京に帰ってきました…。

    現代演劇の世界は、2.5次元とか、プロジェクションマッピングとか、そんなテクノロジーの活用によって、ただでさえキラキラした役者たちを一層華やかに照らすのに忙しいも関わらず、今回の作品は極めてローテク、シンプル、ただ、物語は単純ではなかった。慎重に政治性を排除しつつ、人間の集合体のひしめきが生み出す軋んだ世界の、矛盾と混乱と緊張の世界に真っ向から向き合っていて、素直にただただ圧倒された。

    ナポレオンはフランス語に不可能という言葉はない(日本語訳では吾輩の辞書に不可能はない)といったらしいけれど、フランス語にもそしてもちろん英語にも不可能の文字はあった…というか、不可能(impossibilis)というラテン語を仕入れて英語に繋いだのはそもそもフランス語のほうだった…これこそナポレオンの言葉の矛盾(苦笑

    ネタバレBOX

    しかし、ナポレオンが不可能を信じなかったというのは、己の権力の強大さ故でもあった。

    舞台上の言語が、最初は英語話者ふたり、フランス語話者ふたりだったのが、途中から、それぞれの役者たちがポルトガル語なども含んだ会話に変遷し、男性が女性の体験を語るなどと変化し始めるのも、そういった皮肉もあるのかも知れない。

    世界は主要言語である英語フランス語だけではなく、主要言語ではないポルトガル語なども含んだ世界で構成されていると。

    そして不可能という言葉も、ここではそれほどシンプルな意味ではないようでもある。

    それは『impossible to survive』のボーダー(境界線=人間がサバイブする限界線)を表すのか、それとも『impossible to imagine』…ジョン・レノンの予想より遥かに悪い、敵意と緊張に満ちたハーモニー(融和)を越えた、比較的平和な世界にいる人たちが想像できない、あるいはその矛盾に気づくとそこでの権力者に睨まれるがゆえにあえて言葉にしない、その世界にいては想像できうる限界を越えた世界なのか…あるいは人類や世界そのものを一つの生命体に見立てて、『impossible to
    aware (あるいは、memorize)』というようにして、被害者の全てがあの世か難民キャンプで恐怖によって加害者たちによって支配されて口封じされているため、世界が気づくこともなく、人類史の歴史からも欠落している、という意味なのか…凡てのエピソードが色々な世界や作品を想起させる。

    そもそもラテン語のimpossibilisとは、当時の郡、あるいは宮廷の力の及ばないという意味…とするならば、タイトルの意味するところも少しは分かってくるのかも知れない。

    ここで舞台上に張られた幕の形作るものが山を表現していること、それがつまり平地の権力、あるいは法律の統治の及ばない場所、すなわちボーダーなのだな、と言うのに気づく。

    人々の組織の生み出す秩序のルール(法律とか刑罰)の及ばない、人々の恐怖を煽る権力者とその取り巻きの生み出す恐怖に支配された世界、それが『組織』と表現される赤十字や国境のない医師団の人たち目にする20キロとかの先にある山々。そこは恐怖で人を支配した人たちのせめぎ合いで、自分たちの口封じのために地面の下に埋められて永久に口を封じられた人たちが埋められた場所でもあるのだが…。そして、ここで気になるのが劇の中で赤十字の人たちと思われる人たちが自分たちのことを『組織』と頻繁に表現していること。最初これは一般論として色々な人道支援組織に共感できるようにそのように話ししていたのかと思ったが、やがてどうやらそれよりはむしろ、この物語自体が赤十字などの話ではなく、人間の生み出す『組織』の話であることを暗示しているようだと感じはじめていた。組織自体も神聖なものではなく、そのなかで組織の権力を乱用して悪事を働く変態、犯罪者たちも存在することが暗示されている。これは結末があえて示されていない。組織の性質を知る者にとってはよくわかる話だが、場合によっては犯罪者を告発した人間のほうが逆に犯罪者に仕立て上げられて追い出される場合もあるかも知れない。それが『組織』の恐ろしさでもある。確実な証拠を手に入れない限り、善悪よりも権力の論理でシーソーは動く。組織が暴走して変質している様子は外からはなかなか気づけない。

    impossibleのpossibleは力、powerでもある。人々のもたらすpowerとは何なのか?冷静な論理で動くときは、人々の秩序を守るルールとしての法律で無法を縛り、またあるときは人々の攻撃的な気持ちを鼓舞するために恐怖で人々を煽り、組織形態を保ったまま個人の感情を恐怖で殺し、個々の人を機械的な操り人形にして狂信的な集団に変貌させ、狂気的なジェノサイドに導く。その、外からみると道化じみた権力者たちの手法、すなわち矛盾は、物語を観ていると巧妙に隠されている気がする。そういった人たちを実際に見たことがある人は、おそらくすぐに分かるだろう。そうした人間の性質の描写は少し政治的である。ナポレオンがまさにそうである。不可能という言葉はフランス語にあるのに不可能はないと堂々と言い切った、今はただの道化だったが当時は英雄であり恐怖の対象だった。

    多くの助成金を得た作品からは、巧妙にそうした人物像の描写が排除されていることが多い気がする。結局のところ僕たちは時代は進んでも同時代的な作品のなかにではなく、シェイクスピアなどの作品のなかにそうした人物像をいまだに見出さなければならないのかも知れない。

    現代の世界には、歴史ドラマの虚構のなかにのみ存在する、暴走する市民たちに悩み、落ち着くように説き伏せる徳の高い権力者は存在しない。

    物語のなかにふたりの医師により救われた少年が存在する。一人は医師を救い、一人は医師を殺す。

    これはよくわかる。

    人に救われても、頭がおかしくなるとそれすら無かったことにして平気で救った人を殺すようになるのである。

    これは日本でも、殺人に至らないだけでよくある。自分にない力(ここでは人を救う力)を持った、正義と真実が心の中に燃えている人間は、憎悪を煽り、恐怖で人を服従させて組織を操る人間たちにとっては憎悪の対象になるのである。

    自分は少年を救うために戦争を一時中断させ、山の中に分け入った人たちが、戦争の小休止のなかで鳥の声を聞いたくだりで、自分も大好きな日本映画『せきれいの曲』を思い出した。『せきれいの曲』は本当に素晴らしい映画なのになぜか全然有名ではない。真実のなかで生きることほどの幸福は人間には存在しない。それは事実である。僕の周りには、嘘で塗り固めて虚言で生きている人たちが大勢いる。これは不幸である。やがて弱い人たちから病んでどこかに行くだけである。

    これは本当のことである。

    大きな権力を握り、多数派で組織を操ることが人間の幸せではない。

    例え狂ってると言われたり、歌う喉を奪われて暴力に晒されたり、時には殺されて山に埋められようと、真実のなかに生きることほどの人生の幸せはない。

    これは断言できる。

    それゆえに憎悪されるのだ。

    この舞台の最初に、演劇で世界は変えられないと言ったが、それは嘘である。

    特にコロナ以降でみんな気づいたが、演劇で世界は変わる。ゆえに恐れられるようになってしまった。

    舞台の上で、堂々と嘘をつくのは、いくら役者でも無理である。人生や家族との時間を犠牲にして、それでは何も得るものはない。

    権力者たちは舞台の上での正直な人間たちを恐れる傾向にある気がする。それは彼らが権力者でもないのに台の上に立ち、利害関係者に忖度することなく、素直に胸の内を吐露する機会があるからだ。

    舞台の上に立つと、胸の内にまっすぐな人間とそうでない人間は存在感が違う。それは観客たちにもわかる。

    だからこそ、演劇で世界は変えられない、私たちは仕事でこれをやっているとあえて舞台の上で言うのである。一流の役者たちが胸の内そのままに舞台の上で表現すれば、文字通り利害関係者たちに拍手されて虚言を振りまく権力者たちとは役者が違う。裸の王様はたくさんいるのである。それはあまりに圧倒的な違いである。そのことを完全に認識しているので、そのように表明するのであるのだと思う。これは多くの劇団がそう言ったほうがいいと思う。現代は不安定すぎる時代である。役者が本心で表現しているのかどうかは、見ていればわかる。舞台の上で圧倒的な存在感を出して世界の矛盾を示すのは、こっそりと美辞麗句に紛れて吐露するしかないのかもしれない。シェイクスピアのように。シェイクスピアのように当時の権力者を揶揄するだけでなく美辞麗句も混ぜれば、芸術は成立する…。現代の権力者は利益でつながった集団であることが多いため、特にそのように思う。矛盾を暴くのは、難しい…(苦笑

    一人の嘘つきの道化が百人の正直者の観客を騙すのは無理だけれど、その逆、すなわち一人の正直者の役者が百人の道化の観客たちに矛盾に気づかせるのは可能だと自分は思う。

    ピエロがピエロを演じるのは、ピエロが演じた愚かな姿を見せて、虚偽に塗れた強力な自分たちを安心させるためではない。自分たちが真のピエロだと気づくためだと自分は思う。

    (補足)
    公演終了したのでシンプルだけど考え抜かれて軽量化された旅公演向きの舞台美術について書いてみます。

    舞台美術の主なのはシンプルで、重めのコヨーテっぽい色のコットンの布地が後ろの方にかけられていただけでした。

    そう、驚くべきことに最初見えてたのは本当にたったそれだけだったのです。

    それは、最初はどうやら山々とその岩肌を表しているようで、そこが平地の民の法律、権力の及ぶところの『境界線、ボーダーあるいは限界』を表しているようでした。そしてゲリラたちが絶え間なく銃を撃ち合っているとでもいうように、人や、かつて生命のある人だったが今はもう人ではなくなった死体たちが、石や岩とともに絶え間なく転げ落ちるようなドラムの音が、奥から鳴り響いていました。それは今まさに戦時中とでも告げるように。

    それが少しずつ幕が持ち上がり、ドラマーの姿が見えてきます。

    姿が見えない間、鳴り響くドラムのサウンドは、音からして生のような重低音はあるが、最初はまさかこんなシンプルなセットと普段着そのものの衣装?の俳優たちで、ドラマーが帯同してドラムも持ち込むなんてわけもないだろうから、たぶん劇場備え付けの素晴らしいドラムンベース的なサウンド・システムで、録音したものをあたかも生のように鳴らしてるだけなのかなと、なんとなく思おうとしていた…が、どう聞いても生に聞こえた…(苦笑)。

    それが幕が持ち上がるにつれ、ドラマーの姿が見え、生音であることがわかる…と、ドラムってそんなに重要だったんかな、と思う。

    そしてそこはどうやら今まで遠くのように見えていた山々の戦争が人々の生活の上に覆いかぶさってきた現場であるらしいことに気づく。そこでは、戦闘員(ここでは単に銃器携帯者と呼ぶらしいが)だけではなく、無差別に民間人も含めて民族ごとこの世から消し去られようとした末の、不安に怯え家族を亡くした手負いの避難民たちがなんとか逃げ込んだ巨大なキャンプの天幕であり、そこではさらに自分たちの家族を殺した人たちによって管理されており、皆が不安に怯える人々の心臓の鼓動…どうやらそこは1994年のルワンダ。歴史に残る巨大なジェノサイドが勃発した直後だった。

    そう、その難民キャンプを管理していたのは、民族抹殺に失敗したものの諦めずに、国連に監視されながら、目の前で殺し損ねた民族を、武力による恐怖によって、被害者たちの口を封じ、永久に自分たちの未遂に終わった途方もない規模の虐殺の事実を歴史の闇に葬ろうとすることを諦めていない、民族抹殺をしようとしたまさに当事者である加害者の民族で構成された政府軍だった。

    ドラムの音はその軍隊の銃弾(黙っていないと生命はないと脅すような)、あるいは彼らが騒乱を鎮圧する途中で轢き殺した子どもの母親の泣き声などを示しているようにも見えた。

    僕はベトナム戦争によって反戦が盛り上がった音楽の歴史のことを考えていた。その時代は、ビートを刻んで『人を殺してないで正気になろう、扇動者に恐怖を煽られるだけでは権力者の操り人間になるだけである、敵味方関係なく愛し合おう』と夢みたいなことを歌っただけで政治と言われた時代だった。

    …ただその夢とは遠く離れた1994年のルワンダの難民キャンプでは、到底制御できないような不安と恐怖と敵意とが複雑に混じり合い、かろうじて1枚の布が戦場で赤十字などの善意で構成された組織の庇護を示し、皆に正気であることをかすかに呼びかけていた。

    ぼくは、一見事実やインタビューを並べただけに見えそうなこの舞台のなかに巧妙に隠されてるメッセージは凄いと思った。

    この演出家は組織という、オルガニズム(文字通りの人間とはまた別の生命体)の性質を知り抜いているのだと感じた。

    その難民キャンプを管理している政府軍は加害者の民族で構成されている。

    もし、まだ犯罪を犯していない人たちなら、夢みたいな愛を歌えば、涙を流して落ち着いて正気になり、日々の生活に戻って行くかも知れない。

    しかし、民族の恐怖や猜疑心を煽り戦闘的にし、組織的な大量虐殺を扇動した人たちは違う。

    彼らは被害者が本当のことを言い、今まで煽られていた同じ民族の人たちからも、今まで自分たちを騙して操って途方もない犯罪民族であると世界から名指しされるようになった原因であると糾弾されることを恐れる。それまでは英雄だったものが一気に大犯罪者へと転落してしまう。巣鴨のように。それはとてつもない恐怖だと思う。

    彼らは夢のようなリリックでは動かず、隙があれば自分たちの邪魔になる人々をこの世から消そうとする。それは憎悪ではなく恐怖。

    このような人たちに組織を操られた人たちと被害者の難民が一緒になっているというのは極めて危険な状況にある。

    本来なら政府組織を暴走させて歴史に残るジェノサイドを行った人たちを一刻も早く刑務所に入れなければならないが、それもできない。

    これが非常事態である。

    敵が侵入してくるような戦争だけが非常事態ではない。

    組織を暴走させて攻撃的にさせる首謀者が野放しになっていまだに組織のトップにいるというのはとても危険なことなのだ。

    やがて天幕は風に吹き飛ばされそうに、より高くに持ち上がり、役者たちはそれをつかもうとする。

    演劇とはそうしたものなのだ、とようやく気づく。

    劇場は布1枚の天幕。

    銃弾の雨には無力である。

    その天幕が、正気を失った世論や、法律を無力にしようとする暴力的な権力に吹き飛ばされないように背を伸ばしてつかんで、そこにとどめようとする。それが役者たち。

    演劇は僕たちに夢を見させて現実逃避させるだけではない。それだけなら、劇場を出たら現実にかき消される夢のまま。

    甘くて現実で疲れた心を休ませる舞台ももちろん悪くない、というか凄い必要だが、天幕を掴む舞台も悪くはないと思う。天幕をみんなで掴まないと、すぐ飛ばされてどっかいっちゃうんだから。

    正気になろう、そうすればオレオレ詐欺も扇動者も怖くない。

    (途中でこいつ、ロックとか言いたくてしょうがないんだろうな、と思われそうだったので我慢して書かなかったなり(台無し))

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    2025/04/26 22:30

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