実演鑑賞
満足度★★★★
クシシュトフ・キェシロフスキ監督と言えば、映画好きであった昔2本ほど観た記憶があり、それがTVシリーズ「デカローグ」から映画化された2本(「殺人に関する短いフィルム」「愛に関する短いフィルム」)に当たったのだが、元がTV用作品だと知ったのは後の事で、いつかTV版の全作が見れたらな~、という思いが脳の奥底に残っていた。
今回の新国立主催の公演は(にしては)中々の盛況ぶりな印象だが、映画ファンの動員という事もあるだろうか。
Aプログラム(1話・3話)を観た。
子役が出演する。見たところ小学高学年。特に1話では主要人物3名の一人の役を担い、台詞も多く、父子家庭(母親とは死別か別居か不明)の健気だが繊細な、しかし自分の考えや疑問を中心に存在し得ている、うまく言えないがある特徴を備えた役柄。父親は間違いなく彼の成長を大事に、不要な作為で相手の精神を歪めないよう、自分も自然で正直な、それゆえ世界を肯定する前向きな存在であろうとするような、そんな姿を想像させるすくすくと育った子どものキャラが浮かぶ。
つまりドラマが想定した父子関係を成立させる役のキャラが鍵に思われる。その点でこの低年齢の俳優は、「稀に見る天分」の子役ではない事は全く良いのだが、キャラがフィットしない感が残った。指定された動きをこなし、台詞を出す範疇に止まり、心を動かす領域には到達できなかった。と言ってもそれは恐らく劇作りで難度の高い作業で、小川絵梨子演出はこの最大のネックをどれほど意識しただろうか、と疑問が過ぎった。勿論大意を伝える役割は果していたけれど。
第一話は父子と、父の姉(=息子の伯母)が主な登場人物。学者の父は、パソコンの計算式を活用する技量を体得した小学生の息子と、プログラムの話題で日々のコミュニケーションをかわしている(パソコンに打ち込まれる文字・記号は、縦に長い「団地」の装置の上部の壁面に映し出されるが、ポーランド語らしい)。
この所息子は「死」についての質問を父によくする。なぜと聞けば、近々建つ教会の敷地の前に、犬が死んでいたという。「死とは何か」の質問に対し、父は分子レベルの話をする。死によって人間は「消える」だけだという。
「今日は伯母さんが夕食を作ってくれるからな」と出かける父。伯母の興味に答えて息子はパソコンを立上げ、打ち込んだ指示算式で家内の電化製品を動かし、玄関の鍵を解除し、風呂の湯を沸かす。感心する伯母。父は遅く帰って来る。伯母は甥のために教会に通わせたいと願い、弟にも勧めるが、無神論を貫く科学者である弟は難色を示す。父はコロンの匂いをさせ、姉に指摘される。(姉はこれを厳しくは咎めないので、妻はいないと思われる。)
不思議な場面がある。ある夜、子どもが得意で毎日プログラムを作っているパソコンの電源を消したにも関わらず、点いてしまう。もう一つ伏線らしい事が起きるが、その後、ある日の夕方学校帰りに事故が起きる。サイレンが響きわたり、近所の大人が「子供二人が池に落ちた」と告げに来る。息子は池の氷の厚さを計算できる。そういう間違いは犯さない。だから息子ではない、と推量するも父は居ても立っても居られず駆けつける。救助隊に引き出されるのを凝視するもう一人の近所の母親が、絶望の声を上げる。息子とつるんでいた級友を見つけ、姉が声を掛ける。「スケートに行くと言っていた」と言う。そして父も現実を知り、崩れ落ちる。家に戻った父は、再び「勝手に」立ち上がったパソコン画面に映った「I am resdy」を見つめ、エンターを押す。再び「I am ready」と出る。何度もエンターキーを押すが他に何も起きない。普請中の教会の壁に蹴りを入れる。まるで無神論である自分をあざ笑った相手に抗議するように。
ポイントは、上述した「不思議」で、最初私は息子が不可思議の領域に触れつつある事を示唆するものかと考え、池の氷の厚さは十分だったのに息子に備わった別の力が氷を貫いた、とも想像したが、恐らくはパソコンが息子に嘘の解を教えた、というのが作家の意図だろう。
旧約聖書にはアブラハムが高齢にして漸く授かった一人息子イサクを、生け贄に捧げるよう神が命じるという有名なエピソードがあるが、旧約の神は理不尽な神、人間を「試す」神だ。しかし現代において、人間が神を裏切るテーマは数あれど、神がかくもあからさまに人を試す物語は寡聞。息子を死なせたのは神ではなく、「科学への過信」と言い換える事も可能だが、このドラマは事故の背後に「神」を読み取らせる。
以上がエピソードⅠ。Ⅲはネタバレに改めて。