実演鑑賞
開幕から注視させる流れである。別役戯曲の中でも些か軽いナンセンスの部類だが、加藤拓也演出は客との馴れ合いでナンセンスのもたらす緊張を即座に笑いへ着座させられる所をさせず、手練れの役者が「真剣に」というか「純朴なまでに真面目に」そのアホな言葉を吐く男共を演じてる。その様が良い。
松井るみの装置はその場所を近代的な地下鉄のホームに見立て、柱を上ると等間隔に設置された最近風の電灯に手が届き、これは劇中で使われる。
「俺たち」という集合が見えて来るのが終盤のこと。女性二人が嵐のようにやって来て、去って行った後、「男ども」の集合が残る。彼らはあの彼女たちこそ本当に物事を実行した「何かを為した者」だ、と評する。だとすると何事をも為し得ない自分らは一体何ができるのか、何をすれば良いのか・・。
時代の産物を微かに戯曲に残して行く別役実の台詞の端に、何かが引っ掛かる。恐らくはこれが書かれた当時あった何か、またはその当時人々の記憶に残っていた何か..。
加藤拓也は令和に読み替えた「カラカラ天気」をやったと言う。
当日立ち見で観劇した時、令和への翻訳のポイントは分らなかったが(今もあまし判っとらんが)、配信をやるというのでこれも観て、新たな発見もありまた初見と随分印象も違った。戯曲の時代性という点で言うと、「何かを成し得ない」事への自省、自己批判は今の時代、そう厳しくは問われない(己を突き刺す事はない)のではないか。
何かを成そうにも成せない時代、条件的に剥奪された状況がスタンダードな時代だから。
戯曲的にも、男たちの前に何か具体的な課題を持ち込まないと、彼らはそれほど痛烈には、その事(何も成し得ない事)を慨嘆するには至らない。
しかし言葉の一般的な意味としては、つまり語義的には理解はできる。そして、彼らは今少なくともやれる事に、真摯に向き合うというラストを作る。これはこれで、感動的なのである。