夜は昼の母 公演情報 風姿花伝プロデュース「夜は昼の母」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    二度目の観劇はならず、破の序盤ステージを目にしてより日が随分経っているが、褪せつつある記憶を掘り起こして言葉にしてみる。

    ネタバレBOX

    風姿花伝P・上村聡史演出による優れた舞台を目にした事で、自分が作者ラーシュ・ノレーン作品への「予断」を無遠慮なまでに持っている事はまず断った上で・・。

    作品はストーリーテリングのずっと手前、舞台上に存在する個体としての人間描写が、細密画のレベルで求められている、というのが私の感じ方であり、作品への願望だ。
    ゆえに役者の課題は「さらけ出された人間」の提示であり、「話を進める」最小限の役割よりも、「そこにリアルに存在し得る」ありようが深い洞察から生み出される事が重要だ、と感じる。
    劇が進むリアルタイムの時間は、客観的事態の進行以上に、人物の他者への影響による変化に比重があるため、ある時間経過の後に想起する(観劇中であれ観劇後であれ)時の人物の整合性、リアリティの濃さが相対的に重要になる、という風に言えるか。
    高度で複雑な役者の仕事は人それぞれ、説明困難ではあるが、恐らくは「役人物」と「役者本人」との「合作」として、己の中から有用なる人物を発見し、生み出す課題となるのだろうと思う。

    という事で、結論を言ってしまえば、ストーリーよりはこの芝居に登場する人物たちの人物像にどれだけ役者が迫れているか、360度包囲されている「家族」内部の関係性と構成員の人格=たたずまいと行動が緻密に描けているか、の話になる。私の関心は(劇から受け取る快楽は)、それだからだ。
    そしてそれはラーシュ・ノレーン戯曲の最大の特徴が「人間(あるいは家族)」の本質の暴露だから、である。

    過去上演された二つの共通点は、ドメスティックな会話劇である点。一作目は父母と息子・娘、二作目は二組の夫婦。そして本作は再び父母と二人の息子即ち現代の核家族だ。
    父に問題のある家族の痛み(現在・過去ともに)は、映画の題材としても多いが、父とはそういうものである、とも言う。反面教師、越えるべき壁。
    だがセクハラと強姦が地続きだとは言いつつも「傷」の程度は大きな開きがあるように、「問題ある父」の影響力も様々だろう(同じ家族でも感受性によって大きく違ったりする)。
    この作品に登場する父は重症の部類とされている。ただし、作者の経験が反映しているせいかその「度合い」を客観的に測る事をしていない。(そのような他者の目を存在させていない)
    父は酒乱であり典型的アル中でもあるが、芝居では「アル中」という概念で父の状態を把握する家族を置いておらず、目の前の父という具体的な存在の言動に即反応せざるを得ないドメスティックな環境がある。幾分余裕のある観客は「これはアル中だ」と脳裏をかすめても、芝居に没入する事でそうした一般的なカテゴリーでの認識は背後に退き、無力に思える。家族の成員が見る家族の風景に同化する。

    さてこの父は普段は人の良い人物である。が、酒を飲んだがために無茶苦茶な事をする、全くの別人格の出現に翻弄される経験を家族は重ねた結果、酒と事態との因果関係を体験的に把握するに至る。だが忘れた頃に出現するため、一家の長を常に監視する事はできず、、といった経験を何年もの間重ね(あるいは最初は何年かに一回、それが徐々に頻度を増してきたという事も)、「現在」即ち下の息子が17歳になった家族状況を迎えている、という訳である。
    父を山崎一が演じる。
    この配役については私は懸念があったが、これはあくまで私が描くラーシュ・ノレーン作品のイメージに照らしてだが、やはりある線を超えられてない、というのは正直な感想。
    父の一見情けなく病的なキャラに山崎氏は合っていそうなのだが、実際得意とする技をこれでもかと繰り出していたが、私の記憶と照合した所のNylon100℃による2000年前後の舞台(祖父と幻想の中の息子役)での山崎氏とほぼ変わりがない。彼一流の笑わせ術がある。その定型を駆使してうまく繋げた、という印象だ。俳優が演技を「技で繋げてる」と感じる事はあるが、上手い作劇の芝居だとストーリーへの注意が演技の細部を目立たせず、ポイントを押さえた演技をしてくれてたな、という印象を残す。役者の仕事は概ね、そういうものだと言えなくない。が、この作家の戯曲は「別」なのである。
    ただ、本作は戯曲としての完成度に難があり、それゆえ細密画の完成よりは「展開」の妙、役者の身さばきの躍動を取り込もうとしたのかも知れぬ。多くの観客の納得を得る工夫は不正解とは言えない、が、私が求める快楽からは遠ざかる。「人間」の限界のリアルな形での提示は、芸術の重要な役割の一つ。話は逸れるが、どろどろな権力中枢の「人間ゆえの」醜さを、どことなく整理の付く話に置き換えて大衆に飲み込ませている欺瞞を見るにつけ、人間はもっと「暴かれねばならない」欲求が高まるのである。

    4人家族の中で最も癖のある役柄は、岡本健一演じる次男だろう。芝居の冒頭は、彼が女装をして鏡の前に立ち、それを見つけた兄が容赦ない嫌悪の言葉を弟に投げ付ける場面だ。嫌悪が性的なものに対するそれなのか、自分の理解を超えた「趣味」に対する反発なのかは分からないが、弟の歪んだ人間性は後々次第に見えて来る。既に50近いだろう岡本氏が十代を演じている事に最初違和感がよぎったが、成長しない精神をもう一人の老成した自分が眺めているような爛れた性質に似つかわしく見えて来るのが不思議、というよりゾッとさせる。
    兄はサックスを実際に吹く場面で技を披露していたが、家を出て自立したい願望を吐き出している相対的にまともな存在だが、最後は彼も家族のゴタゴタに関わらざるを得ず決断に至らない。これが家族の病としてなのか、行きがかり上そうなっちゃった(劇が終わる時点では)という事なのかは不明で、おそらくフィクションと割り切って書かれたなら兄は出て行くか「出て行けない」か明確にしただろうが、体験が元になってる故にそこを明確に出来なかった。(現実の家族は己の意思と、意思とは別の必然と間で繋がりが維持されている。)という事で兄の描き方はもう少し別のあり方があり得たかも知れない。
    最後の曲者は母(那須佐代子)である。DVではないが酒乱で「迷惑をかける」父を見限り、絶縁するかに見えた母は、父の必死の改心の誓い、歯の浮く台詞、何度も裏切られたはずの言葉を重ねられる内に、「これが最後だよ」と軟化する態度に転じる。観客から見ればそれは父の巧みなトラップで「本当に君がいないと生きて行けない」と言いながらスキンシップに至り、性的な甘味な時間を仄めかしたのに母がフェロモンを発し始める訳だが、観客の目にも彼女の固い意志が明瞭と見えていただけに、裏切られた感は否めない。この一部始終を、次男は見ており、スッキリした顔で居間に出てきた母に次男は近づき、最近携帯するようになったナイフで母の頸動脈を斬る、という怒りの場面が挿入される。これは次男の想像の場面。現実を逸脱した場面はここともう一度、同じく次男の見る幻影として挟まれるが、次男という人間はこの過激な行動を「取らない代わりに取られる」歪な振る舞いにカモフラージュされた人格であると言える。だが掘り起こせばそこに理不尽さへの怒りがあるにせよ、現実の彼は解消できないものを抱え、現状において可能な自己防衛的な生活スタイル(学校には行けずにいる)を維持する他なく、故に家族に対して、とりわけ見切った父でなくまだ塗りしろのある母に期待があるだけに愛憎にまみれた感情が生起するといった様相である。
    母は問題児である割にチャレンジをしない次男を諦めなのか敢えての突き放しなのか不明な態度も示す。元々子供への愛情に欠く性質を疑いそうになる人格で、冷酷さがふと現れる。子供に対して不敵な笑みを見せたり。子供らのためには父と離れるべき所、離れられない事を自己弁護もしない感性。家族とは綺麗事ばかりでない事を弁えている態度とも。
    女性性と母性のバランスを男の子供の目線で疑う事を普通はしないが、老成した次男は無遠慮甚だしくもそれをやってのける(あからさまに言葉にして表面的な円満を壊すことはしないが)。だが糸が切れたら何をやるか分からない不気味さを湛え、これに言葉を与えるなら、愛の不結実ゆえ、という事になるのだろう。
    子供は親を選べないと言うが、親も子供を選べない。親を親に育てるのは子供であったりする(自覚的でなかろうと)意味では、この次男の性質はこういう父の影響によるものだろう、と推察させる第一段階から、実は(子供にとっての味方と見えた)母の影響が最も強くあったのかも知れないと推察する第二段階、そして家族にとって最大の影響力は次男の存在にあったと考える第三段階へ。作品がそう導いている訳ではないが、有機体である家族の問題に対し、あるいは家族環境で受けたダメージを解消する課題に対し、必ず通過する思考過程をこの芝居を見ながら思い巡らしたものであった。

    結論。こうした影響関係にある人間の形象という課題には、(芝居は相手からもらう、という事とは別に)単体として自分がどのような「状態」にあるかを突き詰め、己を具象として舞台上に存在させる必要がある。
    山崎氏の演技は特に彼が隠していた酒を取り出して飲み、元に戻すも次男に目撃されており証拠まで突きつけられてもなお「飲んでない」と言い張るくだりが極め付けで、笑わせ、呆れさせるのだが、闇の深さ(人間の浅さ、という事であればそれも一つの闇)の出どころが見えないのが疵である。
    戯曲の最後、彼がふと漏らした「とっておきの」履歴、すなわち救国軍(的な部隊)に参加していた事、これに息子らが反応し、今父親を見直そうとし始めた瞬間を切り取っている。息子らを懐柔させる手を持ち出した父、それに絆される息子らの「弱点」、としたかったのか、それとも実は父は英雄だったと仄めかす事で暗澹たる物語に光を与えようとしたのかが演出面でも不明だった。私は前者の線で徹底的にこき下ろすのが整合的だと思ったが、それらも人物像の土台があればそれなりに見えて来た可能性もあるな、と(自分に都合よく)解釈したような事である。

    この話の舞台は1950年台の前半だったか。長男がサックスで奏でるのが「ディア オールド ストックホルム」。スウェーデンの古い民謡をジャズスタンダードにしたスタン・ゲッツのレコーディングがこの頃で、あるいは作者自身の経験の反映か?と想像。ここでこの曲である必要は特にないので。

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    2024/03/03 00:03

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