実演鑑賞
未見のこの戯曲に関心あり、久々に俳優座研究所卒公を観劇。
いつもの赤坂区民センターでなく今回は以前馴染みのあった麻布区民センター、と気付いたは良いが駅から反対に歩いてしまい、5分遅れ。他の二人と共に席へ案内されると、冒頭の主人公の語りが終わるあたりだった。
「現在」の彼がかつての日々について語り、抒情的な音楽が高まると共に暗転、回想される日々の物語が始まる、という寸法。この戯曲が「ガラスの動物園」に影響されて書かれたという背景から考えると、冒頭で彼が語った内容は彼自身にとってのその日々の意味、今の思いだろう、が人物紹介までやったかは不明。それらは追々説明されていた。ちなみに語り手の彼は回想劇には実体としては登場せず、周囲は小さな彼がいるらしい透明な空間に時々話しかける。登場するのは折節に観客に語り掛ける現在の彼である。
アイルランド作家による家族の物語。さあ見るぞと勢い込んだが、体調が思った以上に不調だった模様で台詞の「音→意味」変換が頭の中で追いつかない。ニュアンスだけでも掴もうとするが、特に声量の小さい俳優の所では大意を掴む(点と点で線にする)作業が途切れ、張った糸が下に落ちる。また、身体表現にまで落とし切れない若者の演技では説明台詞が大きな壁。(自分の体調を棚に上げて何だが)一幕はほぼ睡眠時間となった。
二幕から覚醒した。父の居ない家族の在りし日の貧しいながらの暮らしの華やぎと、既に忍び寄っている危うさが一挙に表面化して崩れ去る様とが、無慈悲に描かれる。
アフリカから帰還した神父である長男は精神にやや異常を来しリハビリの身で何時ミサが開けるか分からない。家族を仕切るのは長女、それを補佐する次女、内職に勤しむ三女、四女、結婚して子供(主人公)のいる五女。
可愛らしさと痛々しさ、健気さと酷薄さが共存する。ダンシング、というタイトルは彼女らが時折「踊り」を披露する場面に因んでいるが、3度程のその場面はドラマに絶妙に噛んでいる。
ルーナサは祭の事で、回想劇の初めはその祭の思い出を語りながら、踊りを再現する。はしゃいでいるメインは四女で、これに次女が付き合っている。
次の場面は、結婚していながら何故か実家に住む五女を、別居している夫が送って来た夜。家の中では夕食の準備か何かでにぎわうが、月明かりの下「君は最高のダンサー」と言って踊る二人の場面がある。彼は踊り好きらしい。
暫くは踊りから遠ざかるが、ある時壊れたラジオを五女の夫が修理できるらしい、という事でやって来る。「本当は自信がない」が家に入ると彼は任せて下さいと請け負う。「きっとアンテナだ」と当たりを付け、家の背後の電信柱に登り「頑張ってる」姿、それをよそに姉妹らは会話を交わしている、と、ラジオから音楽が流れ始める。努力が報われ褒められ気を良くした彼は、音楽に合わせ「踊ろう」と姉妹らを誘う。まず次女を誘って少しだけ踊った後、かねて一度踊ってみたいと願ってたらしい三女に声を掛ける。普段大人しい清楚な印象の彼女は一旦断るも誘い上手に断れず、実は達者な踊り手で自然体が動き、二人の踊りが盛り上がる。「この位で」と三女にピリオドを打たれた後、次は・・と妻を誘おうとするや、彼女がラジオを切る(恐らくコンセントを引き抜いたか断ち切った)。怒りを抑えて彼を拒絶し、悲しい顔で男は去って行く。
ダンスが人を繋ぐ場面ではなく、断絶を深めた事で不安定さが極まる。
先述した「ガラスの動物園」の影響はパンフに書かれていた通りであったが、ドラマの殆どを占める回想場面に漂う憂い、壊れやすさでもある美しさは無情に砕かれるといった要素が確かに共通している。だがイデアとしての美しさは倫理的な死を意味せず、思い(魂?)は漂うのだ。(これを別役実は捕えて戯曲化したのやも。)
違う点は、「ガラス」は戦後アメリカの繁栄の「陰」を印象づけるのに対し、本作は強国イギリスに翻弄された小国の、常に変わる事のなかった宿命の色彩が垂れ籠めている。
最近映画「ベルファスト」を観てアイリッシュの魂に触れた思いであったので、それが観劇に反映したのかも。
それにしても、この作品を数年前に観ていた事は後になって気づいた。
後半を観ながら「どっかで観たかも」という感覚はよぎったのだが、風のように過ぎっただけだった。同タイトルを民藝が昨年上演した事は知人から良い舞台だと紹介されたので覚えていたが、自分が観た舞台としては忘れていた。この脳の状態は中々マズイな。(独白)