実演鑑賞
満足度★★★★
随分前にノアノオモチャバコによる同作品を観たのが最初で、楽隊の入る風変りな演出でも戯曲の内容は伝えていた。そして数年前OPAL桜美林鐘下クラスによる打ってつけとも言える「胎内」は緊迫感漲る濃い舞台であったが、若い俳優にはかなりの負荷と見受けた(大人びた役に必死で、背伸びしていた)。
さて三好十郎が描いた閉ざされた洞穴=密室での人物らの激白を味わいたく、勇んでこまばアゴラに赴いた。結論的には、期待した的を少し外された感。後で見ると先行した利賀演劇人コンクール、鳥の劇場公演では三人が出演とある。私はと言えば、今回の一人芝居バージョンでは女性役の村子目線でこの物語を語り通すのだろう、と勝手に想像していたのだが、開幕して開口一番は、花岡の唸るような台詞。そして村子、花岡、佐山(男2女1)三名共の台詞が吐くのである。
恐らくは、利賀での上演台本と今回のは同じ(またはベースにしている)もの、とすれば役の数だけ俳優を配さずとも上演が成り立つ判断であったのだろう。
ただ私の「あてはずれ」というのは、一人多役であった事より、元戯曲のどこをどう切り取るか、そのチョイスだ。
舞台となる時代は戦後復興の兆しが見え始めた頃。この密室で吐き出されるのは、世間が忘れ去ろうとしている戦争の残した疵跡(それは人心にとって一様でない)であり、それを経て今このようにあると気付かせる、ゆえに目を背けたい傷である。
戯曲は三人それぞれの来歴と人間性=個性を彫像を掘るように浮かび上がらせた先に、戦争や時代性、社会がなべて人間にもたらしたものを突きつける。それぞれの人物「らしさ」が、やはり重要なのだ。
一方、今回のバージョンでは「名言集」、生死にまつわる普遍性のある言葉を、詩劇のように構成したもののように見えた。普遍よりは個別具体の匂いを感じたい・・というのが私が観ながら感じていた事だった。彼らの掛け替えのない醜さ弱さ、それゆえの愛おしさを媒介にして、人間存在の普遍を「感じる」舞台を、と。
ただ、台詞の背後に想像の翼を広げ、私の描く「胎内」の世界を感知する余地もあったのかも知れず、自分にその体力がなかっただけなのかも知れぬ(実際舞台上の緊迫の演技に身体が付いて行けてなかった感じもある)。
時折女優の発する声質に感じ入る瞬間は覚えている。心身とも準備を周到に(体調を整え深呼吸をして)観るべき舞台であったかも。