フートボールの時間 公演情報 (公財)可児市文化芸術振興財団「フートボールの時間」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    殆ど完璧と言えるほどに女子たちの心情、立場、目の前に立ちはだかった時代の通念への思い、素直な発見への喜び、相手への依頼心を含めた友情、胸に秘めた切望が、丸ごと伝わって来る。
    彼女達の一挙手一投足が胸を打って来るが、これは弱者に対する優越性のなせる「感動」の類だろうか。。(と自問する程に琴線に触れまくりだったのだが、、彼女らの無念さへの共感と、理不尽さへの怒りとやるせなさ、そして人は変われるものでもある微かな希望という言葉にすればお芝居の定番メニューのような感想が口から出てくる。素直に吐露して良いものか逡巡してしまう。)

    ala collectionは10年程前に発見してより頑張って2、3回に一度ほど観てきたが、やはり良質な作品を作る。

    ネタバレBOX

    満点を付けておいてナンだが(つっても☆5は主観以外の何者でもないが)、一つこれは書いておかずば正直でないというのは、終盤のクライマックスのこと。

    この物語には、女子らの成長、学び、前途にとっての障害として立ちはだかる(当時の社会通念を象徴する)三人の人物がいる。三名の内二人は、最後にある種の変化を起こす。
    一人目は写真館の主人で、娘の強い意志を前に受動的になし崩し的に、もう一人は最後に見せ場を飾る事になる堅物の女性教師が、ある事を機に思考過程の中で導き出した結論を実践する形で・・。
    残る一人はダブル配役のため登場せず、正にこいつをギャフンと言わせたいのだがそこに居ないという事になる。
    問題は女性教師である。

    台詞の端々に見られる、この女性教師がある理解に至り、良心が発露するまでの過程が美しく描かれるが、最後の長台詞の中にやや時系列の飛躍があり、それがこの人物のリアリティに決定的な躓きとなっている、と感じたわけである。
    高校演劇においては、ざっくりとした人物造形をノリでカバーし、大きな物語を伝えるミッションを遂げていたのかも知れぬ(原典を読んではいないが)。
    が、この舞台の作りでは、リアリティの緻密な構築が必要になる。

    良妻賢母を育成するという女学校の存在目的があり、それは結婚を前提としているため、女性が手に職を付けたり自立の方法を手にすること、即ち、学校生活においては様々な発見と成長を実感できること、が否定される構造がある。
    この根本的な問題は、彼女らがその時点に至る十五年間、校長のこだわりから実現していた「女子フートボール部」(今のサッカー部)に、熱中できる対象を見出した三年生二人(北原日菜乃/谷川清夏)、一年生二人(桜木雅/庄司ゆらの)がその道を断たれる事になる後半に浮上してくる。それまでは女子たちの生き生きと羽ばたく姿が描写される。米国の女性シンガーソングライターの曲が折々に流れ、自由へと開かれて行く予感が彩られる。この音楽の力も大きい(ジョニ・ミッチェル「コヨーテ」は珠玉)。
    このフートボール部を率いるのが若い女性教師(堺小春)である。他の教師に、小春に期待をかけている校長(おかやまはじめ)、教育委員会の出先機関のような副校長(近江谷太郎)、裁縫を教える堅い中年女性教師(林田麻里)がいる。
    そして冒頭から登場してサイドストーリーの主役として併走する、父の写真館を手伝う娘(井上向日葵)が、小春と対をなす。その父役は、副校長の近江谷氏が兼任する。
    芝居の冒頭、写真館の娘は、父の事故・入院により、学校行事の写真を自分が代わりに撮る事を申し出る。父は他の業者に頼むことをじつは娘に言い置いていたのだが、それに背き、「父から是非にと頼まれた」と学校に言いにやって来たのだ。その時、彼女の採用を後押しするのが小春。今度の山登りも含めて一ヶ月お試しをやり、ダメなら考え直せばいい、と校長他の教員を説得する。
    井上の写真を、小春は褒める。これが「同じ女性として応援する」だけでなく本心から良い写真だと思っていた、と後半に分かる。井上は自分の中に「撮りたい」欲求が沸々とあって、欲求のままに被写体を焼き付ける行為に没頭していく、という事がある。

    一方フートボール部は、正式な試合が出来るように部員を増やそうと盛り上がる。今度の運動会で、フートボールは試合ではなくプレゼン的にデモンストレーションをやるので、それに参加する人を集める事が目先の目標だ。女子ともあろうものが股を広げて球を追いかける「はしたない」競技、と眉をひそめる父兄もいるが、四人の生徒が部活動の時間を愛している事実の前には、何者もこれを取り上げる事はできない、と観客にも思わせる輝きをもって描写される。
    だがこのフートボールが取り上げられる時がやってくる。
    あるとき小春が他に二つの部活動の顧問も受け持つよう申し渡され、これに対し「では給料を上げて下さい」と要求したのが事の始まりであった。

    芝居の時系列としては、小春が呼び出されると、校長が突如辞職し、副校長が校長に昇格すると言う。副校長は校長の方針である「女性も心身の成長のために運動に親しむべし」を引き継ぐが、フートボールは廃止すると告げる。今ある8個のボールは痛みも激しく交換時であるが、そんな予算はない、しかも反対の声もあるとし、ボールを廃棄するよう林田に指示する。
    「承知しました」と退席する林田を追いかけ、小春は談判を持ちかけ、「せめて自分の手で廃棄したい」と言う。ところが林田は今回に至った事情を知らない小春に呆れ、以下を説明する。
    昇給を当然の権利だと主張する小春に対し、副校長は反対し、林田も「私はそのような要求はしない、雑用は自分の本分だと心得ている」と己の考えを述べる。
    だが校長はこの要求を取り上げ、上の管轄機関に伝えた。だが小春がフートボール部をやっている情報も上がり、解雇が検討される。校長はそれに抗い、彼女を辞めさせない代わりに自分が辞職すると申し出た、校長は貴方を守ったのだ、と言う。
    一言も返せず呆然と立ち尽くす小春。
    このお膳立てがあっての、終盤である。

    林田の中に起きる変化の第一は、生徒たちと遭遇した際のやり取り。生徒は「折角好きなもの、打ち込めるものを見つけたのに・・」とぶー垂れていた後、林田が現れたので思わず、「先生は自分が好きなことってあるんですか」と聞く。「あるわよ。裁縫がそれ」と言い、自分がこれと出会ってから、いかに心を注いでいるか、を思わず顔をほころばせて語る。生徒たちが去った後、彼女はハッと何かに思い当たった顔をする。
    その後のシーンでは、己の無力に打ちひしがれる小春が無言で涙を流し、中庭を歩く姿を月明かりの下に見る。いずれも無言のシーンでの林田の「変化」の兆しが胸を打つ。
    一方、写真館の主人は思ったより早く退院して来て、娘・井上が他の業者に頼まず自分で写真を撮っていた事をなじり、叱る。やはり不許可での無謀な行動だったと知れるが、父の態度に彼女は大きな壁(父だけでない社会という)を感じ、絶望する。彼女の写真を期待していた小春に、もう自分は写真は撮れない、と告げに来る。
    そして場面は運動会の日となる。井上も父に付き添って荷物を持って現れている。その前に林田は小春に、「私は貴方のようにはならない。けど、私は私なりのやり方で、物を言う。」と告げる。驚く小春。何らかの相談があった後、辞職した校長も「これだけは見ないと」と会場を訪れている。この後である。

    その前に、他のエピソードも紹介すれば、三年生の二人、北原と谷川はでこぼこコンビで、谷川は甘えん坊で北原を追いかけてる格好だが、芯が強く無駄な言葉を吐かない北原が師範学校へ行って(小春の後を追いかけて)女性教員になる夢を持ち、谷川はその北原と同じ目標を本気で追い、いつか北原が勤める学校と自分の学校のフートボール部が試合をする夢を温めている。女子同士のキャピキャピとした会話の中でではあるが、フートボールを介して彼女らが「本当に向かいたい方向へ歩いていく」尊さを実地で学び、夢を描くことの純粋さと強さが印象づけられる。
    だが、北原は結婚のために学校を退学する。実は一年前に決まっていた事だった。せめて学校生活の中では思い切り夢を描いていたい、そういう時間にしたいと願っていた。谷川は自分に一言もなく去った北原を恨み、腐るが、挨拶に行く。疑似恋人のような二人の会話も切ないが清々しさがある。
    一年生の二人の内、背の低い庄司は感情を直線的に放出するタイプだが、おませで「青鞜」を読み、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」を諳んじる。それを聞きながら女性が輝く未来を遠く見つめる四人の姿。もう一人の桜木は庄司に言われてイヤイヤ部に入ったが実は最も才能があり、ドリブル、パスの場面を主導的に疾駆する(と行きたいのだろうがまあ頑張ってボールを蹴る)。

    どんな巻き返しがあるのかと期待が高まる最後、運動会の執行と挨拶を任された林田は、フートボールの廃部そしてボールの廃棄について語る。
    私の願望を言えば、ここは黙って残ったボールを一つ取り出し、「最初の種目は、例年通り、フートボール」と紹介する、で良かったと思う。ここでの長台詞は原版を尊重したと見たが、今回の流れでは、うまく嵌まらない。
    林田が「気づき」を得る過程は、ボールの廃棄がとうに済んだ後である。だが台詞では自分がボールに穴を開けている内に、自分の心臓を針で刺すような苦痛を覚えはじめた、と吐露する。これは演技にも拠るかも知れないが、自分がそのような苦痛を覚えていた事を「今になって気づいている」、という吐露が時系列的にも適切ではなかったかな・・。
    そういう風なニュアンスに変換して自分の中で整合性を付けたようにも思うが、やはり浮いてしまった後味は否めなかった。

    クライマックスだっただけに惜しいのであるが、しかし各場面の作り、張り合う必要のない境地に立った女子たちの純粋そのものの群像が、信じられる形で描かれた事は今も嘆息が出る。
    運動場にて、井上演じる写真館の娘は一つも笑わなくなったらしく、父は弱気になり「笑ってくれよ」と頼んでいる。「撮った事を責めたんじゃない。嘘をついた事だ」と言うが「じゃ私が頼んだら許可してくれたか(そうでないだろう)」と無表情に答える。
    と、フートボールが始まる。位置取りを確認する父。と、パスを始めた彼女たちを遠景として撮っている父を差し置いて三脚を抱えて井上が走り出す。中央でパスに興じる彼女らの真ん前に陣取り、シャッターを切る・・。
    暗転後、現代とおぼしい風景の中に、小春は青いユニフォームを着て選手として、井上は望遠レンズが装着されたカメラを手に恐らくスポーツカメラマンとして、立つ。

    それにしても何気に進歩的な校長の「貴重さ」は飾らない風情に溶けていい感じであった。闘いとは息の長い営みなんだと、ある種の諦観へ促されている気がする。

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    2023/10/28 03:07

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