『博多テクニカ女王街ラバー』(無事終了しました!) 公演情報 劇団ぎゃ。「『博多テクニカ女王街ラバー』(無事終了しました!)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    劣化コピーはどちらか
     「不老不死」をテーマとした作品は、演劇のみならず、映画、漫画でもよく見かけます。まして「人魚」がモチーフとなれば、高橋留美子『人魚』シリーズをどうしても想起しないではいられません。実際、白髪の少女とか世話役の婆とか、『人魚』シリーズのイメージを踏襲したようなキャラクターが出てくるのですから、観ているこちらは気恥ずかしくなってきます。
     もちろん設定をそのまま「借りて」くるのではまずいと判断されたのでしょう、『人魚』シリーズはあくまで伝奇物語ですが、本作はSF風味の味付けを施して差別化を図っています。
     でもそれもどこかで見たようなイメージばかりで、やはり新鮮さを感じません。作り手はこういうのをうきうきしながら楽しんで書いているのかもしれませんが、観客から見れば作者自身の自己満足としか受け取れません。

    ネタバレBOX

     「どこからが嘘でどこまでが本当か」、一応は博多の色街の移転を題材にしてはいますが、別にどこの色街だろうと成り立つ話です。人魚が実在した話などはハナからファンタジーなので、無理に現実と絡めると不自然になるばかりです。作者は 「虚実皮膜」の意味を勘違いしているとしか判断できません。
     話し言葉がどうして博多弁ではないのか、明治を舞台にしているのに、やたら現代のカタカナ語が出てくるのはなぜなのか(「クローン」と言わずに「培養」と表現したのには一瞬ホッとしたのですが、そのあとすぐに「劣化コピー」なんて言葉が出てきて萎えました)。言葉について鈍感なのも、全体の印象を薄っぺらなものにしてしまっています。
     野田秀樹あたりから、時代物でも平気で現代語を使う傾向が強くなりましたが、それが演出意図ではなくて、単に「作者が昔の言葉を知らないから」としか思えないパターンが増えました。特にこのお話は、時代が明治から平成の現代にまで移るのですから、言葉が今も昔も同じだというのは手抜きにしか見えません。

     お話が「借り物ばかり」であるのも困ったことで、『人魚』シリーズばかりでなく、『エヴァンゲリオン』からも露骨な借り物が目立ち、培養槽やそれをたたき壊すシーン、「私は二人目だから」みたいな台詞に至っては、誰か「それはやめようよ」と言ってやる人間はいなかったのかと頭を抱えたくなります。こういうのが「創作者としては恥ずかしいこと」なのだという感覚が、福岡演劇の中に育っていない、そのこと自体が問題であるように思えます。

     人魚と人間の恋の組み合わせも、ちょっと数が多すぎて散漫になってしまいました。おかげでメインになるべき名月さんとミツクニ君、遣り手婆の話を掘り下げるまでに至らなかった、これも脚本の失敗であると思います。

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    2010/06/25 23:50

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