実演鑑賞
満足度★★★★
コロナで長らく据え置かれた公演の一つ。天野天街演出による糸あやつり人形劇「少女仮面」とまみえた。バタバタの日々の中、観劇日が訪れたので体だけ運び、座席に身を沈める。
赤坂REDの後方席はやはり遠く、しかも糸操りの人形は舞台床に近い場所で動くので視界から外れる事も多い。そして台詞の応酬はBGMとなり、眠りに落ちる。
ただ・・問題は観劇上の条件というより、何かが足りない。決定的に足りない。あ、そう言えば、と気づけば天野天街演出と言えば「これ」というあのシリトリ台詞や、照明・音・映像等を駆使したドラスティックな転換、そして何と言っても場面の執拗なリフレインが、無い。。
これにハッと気づいた時は逆に衝撃。「え~~」と心の中で声を上げたが、冒頭近くで一人で台詞を何度か繰り返すくだりが一度あったきり、最後まで天野演出のミラクルな瞬間は訪れなかった。
糸あやつり人形の魅力に最初に圧倒された「高丘親王航海記」と、同じ演出の天野氏のものとは思われず残念感は拭えなかったが、一つには、少女仮面のテキスト自体の長さ(刈り取りの難しさ)がリフレインの余地を許さなかった、そしてコロナを意識した時間上の制約、など推測する。かつて観た「高丘・・」はテキストにしても短かく、先々で異形の生物に出会う直線的なストーリー、幻想譚で、人形のみの人形劇。
一糸座が得意とする?人間の俳優と人形のコラボは演目を選び、両方のギャップを埋める演出的工夫が不可欠。「少女仮面」では主役の春日野と少女を人形(一糸座の親子)が演じ、喫茶店マスター、甘粕など重要な脇を丸山厚人、大久保鷹らが演じた。だが役者というより文化財的な意味合いを帯びる大久保氏の存在感や、役者として回せる手練れの丸山氏を排し、あの特徴的で懐かしいフランスの歌(題名忘れた)を流しても、催して来ない(数年前の梁山泊公演で李麗仙が登場したが、どうにかあの歌が本領を発揮できる条件に到達できていた)。それを安易に使ってしまってる感もある。汗みどろで情念の炎を吐き出す生身の演技が上げる熱量こそアングラに必須なもの。
「人形を遣う」必然性、利点をどこに見出すかは、中々難しい問いだが、そこに戻ってしまった。