4.48サイコシス(演出:飴屋法水) 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「4.48サイコシス(演出:飴屋法水)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    頭蓋骨と自我の中の、孤独の、固まり。
    「驚いた」と言うべきか「震えた」と言うべきか。
    言葉が可視化され、舞台のような場所の中に、緻密に組み上げられていた。
    音楽のような調べが聞こえる。
    言葉が刺さる。
    言葉が、礫のように飛んで来る。それはまるで、錆びていたりして切れ味の悪い、とてもイヤな刃先のようなヤツで、それなのに身体に刺さる。
    客席にいるので、耳も目も閉じることができないので、刺さる。痛い。

    演劇って凄いなと素直に思う。2時間10分は長く感じなかった。

    ネタバレBOX

    観客席に案内されて、まずはちょっと「えっ」と思う。
    そして、幕が開いてからは、「あっ」と思う。
    単なるこけおどし、あるいはケレン味かと思う間もなく、そんな思いは一瞬にして崩れ去った。

    フェスティバルトーキョーが開かれている会場の中で、おそらく一番「演劇の会場」という姿をしている「あうるすぽっと」だったからこその驚きでもある。
    「演劇を観る」という行為を何の疑いもなく、あうるすぽっとのアノ座席に座って行おうとしていたのが裏切られたからかもしれない。
    これが、例えば、にしすがも創造舎だったら、多少の気持ちの用意をしていたかもしれないからだ。

    舞台となった、かつて客席と呼ばれていた場所で繰り広げられるのは、言葉と視覚と音のモザイク。
    それは、かつて舞台と呼ばれていた場所だった客席にいる私たちに容赦なく降り注ぐ。
    そして、緊迫感に縛られそれは続く。

    言葉が痛い。特に繰り返される言葉は辛い。

    音が降ってくる。鍛えた身体が提示される。
    交わされるのは、会話ではない、答えのない自問自答の繰り返し。
    なのに、だからこそ、こちらに届く。
    あるいは、だからこそ、受け取ってしまう。

    音と役者と肉体と台詞と言葉と音楽と人の動く音と動作そのものと金属音とノイズと重低音と鈴虫の鳴き声が空間を組み上げる。
    それらが作り上げて見せているのは、作者サラ・ケインの内面なのだろう。最後に感じた意識なのであろうか。

    かつて客席であった空間を前後左右上下とくまなく使う。まるで隙間を埋めなくてはいけない、という強迫観念のように。
    舞台をそのように、広く、大きく使うことで見えてくるのは、逆にその空間の範囲、狭さ、限界だ。
    天井近くで出されるノイズは、まるで「ここまでしかありません」と告げているよう。

    あうるすぽっとという、切り取られた、他と分離された空間がすっと浮かび上がる。その外には出ていかないような空間がある。内へ内へと組み上げられる。
    観客の中にも同じように組み上げられていく。
    それは、あたかもサラ・ケインの脳内のようで、壁や天井は、頭蓋骨のよう。それはさながらサラ・ケインの心の中のようで、壁や天井は、開くことのない自我のよう。

    われわれ観客とそれらを隔てているのは、「血」。生死の境にある血。生きている証でもある血。
    だから、リストカットは「あちらの世界」ではなく、境界線の上で行われる。

    サラ・ケインは「あちらの世界」に行ってしまった。
    その一瞬前の「頭の中」を、その一瞬前の「心の中」をわれわれは、興味津々で客席に座り、覗いているのだ。

    舞台で、健康な肉体やスポーツが繰り広げられるのは、病んだ心と身体が渇望する妄想。
    いろいろな自分がいて、いろいろなことを考える。外国の人が話す日本語の違和感は、自分の中の異物でもあり、違和感でもある。

    ラストにかつて観客席であった場所は、観客席であることを開始し、舞台にいるわれわれは、われわれが演じる舞台の幕が開くのを拍手をしながら待つことになる。


    どうでもいいことだけど、「血の池」深くて驚いた。
    そして、ホーミーのような歌声にはとても震えた。

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    2009/11/18 05:35

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