実演鑑賞
「狂人と尼僧」が秀逸だった同ユニットの今作は、テキストの解読が難しかった。(と言っても毎度難しいのであるが、、)
時計の秒針を鳴らしながらの上演という(お馴染みの)演出が、観る自分の胆力もあって催眠効果になったか・・。テキストを読んで観劇に臨むか、パンフに梗概が載っているとか、必要ではないのだろうか。
抽象性の高い舞台は観慣れてはいなくとも面白がれる自負だけはあったが、今回は自分はあと何がほしかったか、抽象舞台の成立の要素は何か、つらつら考える事になった。発語者の感情表現、的確な物言い、そこではないか。
テキストはこうした作品(サイマル演劇団の得意とする)の例に漏れず、モノローグが主であり、出演者同士の(役人物の)関係性を知らせる台詞情報は薄く、冒頭近くに最小限の説明が為された感はあるが、それで事足りるはずはなく、ドラマの発展の中で通常はそれらが明瞭に浮かび上がるものであるが、その説明には殆ど字を割いておらず、人物個々にしゃべらせたい事をひたすら喋らせているといったような・・。常連の葉月結子の突出感(おどろおどろしさ)は、ヒントの少ない舞台にあっては有難く、それは意味的な情報をもたらすというよりも、心情表現自体がもたらす快楽である。言語を嚙み砕き征服し、己のものとして吐き出す事が出来ているから、だと思う。台詞を追いかけている演技の段階(モノローグではそれが許されそうだが)では、あの声は出せない。役者的にはその声は役の中心からしか発せられない、という事であるならば、役をどう捉えるかも大きな課題で、テキストを提示する、という役割だけでは舞台として自立しないのだろう。役者の役割は大きい。「人のせい」にする訳ではないが、役の「心」が見える演者が一人増えれば、もっと立体的に見えたのかも・・等と想像を逞しくする。
舞台のビジュアルはよく、演出の手の内に自分がある感じがするし、言葉を発する役者の力量は否定しないのだが・・。