毛皮のヴィーナス 公演情報 世田谷パブリックシアター「毛皮のヴィーナス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    二人芝居。内容にも拠るが全編ダイアローグで成立する二人芝居を泳ぎ切るだけでアスリートに送る声援と同じ種類の拍手を送りたくなる。一人芝居にも感服するが、二人の方が不確定要素が混じり(いや厳密には一人芝居もそうなのかも知れぬが)、正しくライブ。取り組み甲斐のある題材を剛腕という印象の溝端淳平、ミューズの高岡早紀がポテンシャルぎりぎりを出し切る激しさで好演。戯曲はマゾッホ作品を脚本化した青年が(他に演出できる者がいないという理由で)演出をするオーディションに、遅れて入ってきた女優とのやり取りである。
    劇中の戯曲の場面を演じる役者としての二人、素に戻ったときの二人、を行き来するが、「役を変わって」と言われて逆の役をやる場面もあって、人格としては一つなのだが、憑依する演技によって、素の自分(たち)にその影響を及ぼし、二人の関係性をも侵食して行く事で「今誰なのか」が必ずしも判別できなくなる様相。他者を演じることはそこに自分を見出す事でもあるが、この戯曲は眠れるマゾッホ性を見出していく二人という「変化」により、この戯曲総体としてマゾッホ文学=常識の解体(の危険性?)が図られている。ある性嗜好の発見・理解から人間の本質に迫るアプローチと言えるか。対等でなく主従の関係を求め、服従する事に快感を覚える背徳性(「服従するに値する」相手が現われなければ実現しないが)は、人権思想の否定に繋がりそうなタブーな世界観だが、どの時代にもタブー領域は先見性とも言える。(これと似た物として思い出すのは、「人間とは忘却によって辛うじて救われている」、と述べた思想家が居たが、これは「歴史を忘れてはならない」という正論に土砂を掛ける手強い論理である。)
    この視点に即して、今舞台では戯曲が何を狙ったのか、というあたりが必ずしも見えて来なかったが、スリリングで楽しく、演技としては指定されている動き(例えば帰ろうとして帰らずに戻る等)を十二分に正当化し、臨場感ある流れを作る様は見ていて気持ちよく、ノリで行くタイプが高岡、計算しているのが溝端、という印象ではあった。
    「貴婦人の来訪」で実力を見た五戸演出の、こちらも成功作となった。

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    2022/09/05 03:58

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