映像鑑賞
満足度★★★★
オフブロードウェイでバズったという二人芝居をA・Bキャスト、演出も変えて上演というユニークな企画。Aチームがキャストの体調不良で公演中止と聞いて観劇候補に復活した(外した理由は2チーム観る予算は無く、一つに絞る事も出来ず)。
だが結局観劇には至らず、たまたま覗いたサイトに配信情報あり、運よく見る事ができた。(BONBONは物理的な距離と同時にアウェイ感があり二の脚を踏む。)
配信は2日間と短く、ワンチャンス集中して鑑賞する必要があったが方法を見つけた。配信鑑賞のネックは音声。これが悪いと二回以上視聴してどうにか舞台の視覚情報・聴覚情報を受け取れるという具合なのだが、スマホからイヤホンで聴くのが性能面では断然良く、優れている事に気づいた。無論映像の方は(暗い舞台でもあり)スマホは厳しく、PC画面で(無音で)視聴。乱れ易いPCのネット接続も結果的には無事故、台詞も明朗。上質な音で劇場にいる空気感も味わえた。
面白いのでついまた再生すると最後まで観入ってしまう(お替り2.5杯)。会話で進行する二人芝居だから台詞だけ聴いていても二人の距離感や息遣いが伝わって来て、心地よい。台詞の運び(戯曲)、間合い(演技)に加えて、演出上の主張は二つ。音響は5場の転換音が良い。電車音、都会の喧騒といった音を重ねた効果音だが、金属音の中に微かな通奏低音を響かせて、都市の冷厳さと包摂性を醸す。そして場転の間、二人は舞台奥の左右にある細い縦長のパネルの前に立って薄暗がりで着替える(それが姿見なのかどうかは客席からは見えないので不明だが二人はあたかも姿見であるようにしている)。この趣向が照明が美しく慎ましやかに彩る。
この戯曲は色んなパターンで舞台を描けそうだ。というより俳優の持ち味で二人の間に流れるリアリティは変わり、微妙なニュアンスの中に神は宿り、含意も変わるのが想像される。だが戯曲が役者に課する制約、即ち最低限形象されるべき人間性があり、それ抜きにこの話は成り立たない条件がある。で、それは何かと考える。
42歳のジョージーと75歳のアレックスの間で真摯なコミュニケーションが結果的に成り立ち、強い紐帯で結ばれる(かに見える)結末を迎えるためには、二人が会話の中で互いに対して十分警戒し、それぞれが持つ厳しい審査基準を潜り、ある信頼に辿り着かねばならない。その事に加えて(今は75と言えども気力体力現役の方も多い)物理的、生物的な次元で特に女の側に相手に惹かれる必然性が求められる。私の考えではこのアレックスという老人は世間的な価値基準で物事を見ない、肉屋らしからぬ(と言えば偏見になるが)インテリジェンスがある。つまり自分と頭と感性で物事を判断し、その態度によって自分も他者も、事象もありのままに見詰める眼差しを得る。女はかつての夫の面影をアレックスに見た、と言外に言っているがそれは後付けにせよある真実があり、彼女は自ら男に近づき突然首筋にキスをしたのだが男の側に彼女を引き寄せるものがあった、つまり受動的な能動性による行動。受動性、衝動性は説明がつかないが虚偽性と最も離れている。女は男の背中に理由の曖昧な妥協をしなかった人間の匂いを嗅ぎ取ったと仮定するも可能だ。女の虚偽性を男が一度疑う場面があるが、女が正直であろうとするあまり疑惑を否定した直後に疑惑を強める返答をする。ジョージーは饒舌だが自分が変人の部類であるとの(経験からの)自覚があらゆる予防線を貼る発話へ突き動かされる様相。つまりは自頭が良い。だが予防線を張ると言っても彼女から男に迫っている。結果的に二人の会話は知的レベルにおいて拮抗して戯曲のあるべき姿として理想的な展開となるが、惹かれ合うから拮抗が生じる。ただ、不安定さを病む女を男の安定(多くの場合それは甲斐性に裏打ちされる)が包み込み形で終わるが、息子を探す旅の費用が1年程度の財産しか男は持っていないとしたら、とも考える。
女の側の心底は分からぬ。が、戯曲は彼女が男の財力を当てにして安心に辿り着いたのではない事を実証するため、男がいつも側に居る事さえ信じられたら他には何もいらないと女に言わせる。
まとめれば、男の己を基準に生きて来た強さ(世間的な成功や名声と無縁でも)にしか、この女の傷を包み込む事はできない、という「そういう女」らしさの片鱗が、見えていなければならない。そして願わくは男は金を投げ捨てる事を厭わない男であり、女は金ではなくその人間性(が存在する事)によって救われその事に感謝する、という事でなければならず、その最大の返礼として女は男と「共に生きること」(書かれてはいないが男の死を看取ること)を選ぶ、そういうギブアンドテイクで対等であろうとするのでなければならない。