民衆が敵 公演情報 ワンツーワークス「民衆が敵」の観てきた!クチコミとコメント

  • 映像鑑賞

    満足度★★★★

    映像にて鑑賞。
    古城氏の脚本はテーマに対する思考実験の要素が強い印象があるが、本作も例に漏れず、大衆の印象操作、政権批判つぶしが具体的にどのように行われているか、が正面から(政府組織は仮想のものだが)描かれる。
    実行部隊は「官邸何とか調査室」、略して官調と言い(間諜に掛けてるのか)、国の政策を批判する運動や言説を監視し、取り締まる汚れ部署(公安がもっと先鋭化したイメージ)だが、ベテラン部隊員(奥村)は男手一つで育てた娘=主人公(北澤)の恋人が実は部隊で現在マークしていた男本人と知る事になる。
    部隊はネットを使った世論誘導にまで手を伸ばし、内部でも不満がくすぶるが、主人公が(恋人を通して)関わった改憲に反対するグループ(人権理解を深める会という)の中でも、主戦場をネットに移そうという動きが出て対立したりと、ネット世論にも言及する。
    「支配」の存在を意識化させる作品であり、立場を違えてなお人として繋がれるのかというテーマも流れている。

    二度目を鑑賞し、一度目は聞き流していた終盤の大事な情報、場面に気づいた。
    恋人との悲しくも胸に迫る別れの場面の後、父と娘の静かな長い会話の場面である。その前に、幾つか場面を遡れば、娘と恋人との会話の中で、娘がデモに参加した事を父が知っていた事への疑問が浮かび、恋人は父は「官調」ではないか、と言う。その後の場面では、父を尾行中に気づかれ、父娘が言葉を交わすが、その中でフリーライターでもある恋人が娘に名乗っているのはペンネームであり、本名は別にある事を娘は知る。娘は父がかねて娘に言って来ていたらしい「国のために働いている」実質を問い、父は「自分はそう思って働いている」との回答に、娘は「それなら良い」と答える。ライターの恋人は実名で「官調」の実態を暴く記事を発表する。一般市民にまで介入した諜報活動をスキャンダルとして暴露した。これにより官調内部は動揺、と同時に、彼の運動グループへの参加も潜入が目的であったと判る。そして恋人との決定的な対話となる。既に恋の総括の段階であり、父が官調職員と知って娘に近づいた事(従って名前はペンネームを名乗る事になった)、だが娘のまっすぐな心で周囲と闘う姿に惹かれた事も事実である事・・等。娘は相手の言葉を受け入れ、記事は素晴らしかったと褒め、自分もそれを励みに頑張る、と告げて去る。次の場面で、かねて噂のあった官調から外部への情報リークの本人が「父」であった事が明るみに出る。そして、最後の父娘の対話。父が娘の表情から学校で何か問題を抱えていないかと気づかう言葉掛けが何度かリフレインされるが、この場面では二人の関係の原点(母を失った家族)を観客にも思い起こさせる。正しい事を主張し続ける事は苦しい、と娘はこぼす。でも・・それを抑え込む事はもっと苦しいのだ、と娘は悲痛な宣言をする。父は娘の行動にエールを送る言葉を静かに語り、自分が官調を辞めた事を漏らす。国のために働いているつもりだったがそれが疑わしくなって行った(仕事に誇りを持てなくなった)事を吐露する。本当の顔を表した父と、本音をこぼした娘の対面で終幕となる巧い台本である。

    教員の政治活動については昔から議論があるが、例えば三十年前あたりの記憶を手繰ると、活動的だったり革新系と思われる教員も中には居て、色んな個性の一つとして受け入れられ、ことさらに事挙げする問題でも無かった気がする。
    もちろん「赤」への偏見は昔から存在するし、差別対象を持ちたいという脆弱な精神風土が日本社会に根強く生きているのも事実。しかし差別意識を心の内に持つことや、井戸端会議でそこに居ない人間の噂をして結束を高めるといったレベルと、公然と唱えるのとではやはり異なる。
    デモに参加した教師がバッシングされる・・それは本来奇妙な現象であるはずなのに(以前はもっと違和感を持ったはずなのに)この現象を受け入れてしまっている自分がいる。
    だからこの芝居の主人公も、もっと妥協点を見つけ、一旦謝罪して学校の立場を守り、自分も教員を続ける道をなぜとらないのか(あまりにリアリティのない戯曲だぞ)、などと一度目の鑑賞では感じてしまったのである。自分の現在地が露呈するというやつである。作者は「現実にはいない」(だが本来は正しい)人物を登場させ、観客一人一人に自分自身との見比べを促しているように思える。二度目の鑑賞でそう感じた。

    様々な事が空気や雰囲気で決められ、一億総風見鶏状態。だが一つ一つを紐解けば、「理が無い」ものに賛同し、または嫌悪の視線を向けている「理のない自分」がいる。
    行動や態度を決定する「自分」の責任が問われるのは常態であるのが、往々にして周囲の振る舞いを見てしまう。本来問われるべき「理」はその都度「周囲」や「空気」が決めている。
    この「周囲」の大多数が、規範やルールを尊重する人々であれば問題は起きないが、その逆ならどうするか。そもそも、なぜ逆になってしまったのか。
    オルテガを引くまでもなく民主主義なんてぇものは何時でも衆愚に陥る。実質的に今の日本は選良にお任せ体制だが、選良の働きを見て「うむ、よしよし」「いやこれはまずい」と、せめて結果を見て判断する目を持ちたいものだが・・それも無いとなれば、人は何をもって生を、行動を肯定するのだろう。快楽か。
    事実としてはこの10年の間に安倍政権が倫理も規範も法律をも踏み散らしたという事がある。民主主義を返上しようが軍事独裁に走ろうが究極構わんが、ある状態が「良い」か「悪い」か、くらいは感じ取り、言える自分でありたい。

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    2022/05/20 08:59

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