犇犇 公演情報 TAAC「犇犇」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    ラストは唐突という印象。
    加害者「家族」の苦悩を描いた話であり、確かに軋んだ緊張感は漂うが、物語性が観えてこない。どちらかと言えば、演出や舞台技術によって犇々とした雰囲気(空気感)を醸し出している。しかし家族内における痛みのリアリティがなく、どうしても家族外_社会・世間を意識した描き方をしないと難しいのではないか。
    加害者本人(長男)が服役(12年間)を終え、家に帰ってからの1年近くを描いているが、時の経過なり、家族内の雰囲気の変化は自然と流れる。例えば、アフリカの諺、自分の肘は舐められない等を挿入することで、少しづつ軋みを和みへという変化を表す。このアフリカの諺…すべての物には終わりがある。ただしバナナにはそれが2つある、はラストにおける意識の根底を示していたのであろうか。
    (上演時間1時間20分)

    ネタバレBOX

    舞台美術は、鳥飼家のダイニングキッチン、上手側にソファーとミニテーブルのリビング。本当に生活していると思わせるくらいに作り込んだセット。5人家族であるが、父の説明はなく、母は手紙を残し出て行き、劇中で手紙を朗読するという形で表現。長男・傑(西山聖了サン)は殺人事件を犯し服役中、次男・望(鈴木勝大サン)は宅配の仕事をし生活を支え、妹・朝未(永田紗茅サン)は引き籠りという状況をサラッと説明。加害者家族を支援する男・鮫島今日矢(大塚宣幸サン)、隣家で幼馴染の小早川隼(清水尚弥サン)を加え、登場人物は5人のみ。各人がそれそれの思惑で蠢き出す。

    日常のちょっとした仕草に性格や置かれた状況が見えてくる。例えば、望はコロナ禍を思わせるのか分からないが、帰宅後、手洗いうがい、また分別ごみの徹底など、何かしら強迫観念のようなものに取り付かれている。苛立ちと鬱屈の毎日だ。朝未は自宅内でも携帯電話を媒介しないと話が出来ない、それも隼だけという対人恐怖症のようだ。傑は、家族に迷惑をかけた思いでドギマギした態度、反省としての土下座。当初3兄弟妹はよそよそしく ぎこちない素振り、その微妙な距離感というか空気感を実に上手く表現している。そのバランス感覚が好い。そこに鮫島の色々な諺などが入り込み、時間をかけて ゆっくりとという言葉が時の必要を示す(例えば、朝未が直接会話出来る、傑からの差入れを受け取る等)。またアフリカの諺の意味は、結局解らないが、同様に傑がどうして殺人を犯すことになったのか、本人も判らない心持を示唆している。
    子供が玩具売り場で泣いているのは、買ってもらえなくて泣いているのか、買ってもらいたくて泣いているのか、過去(原因)と未来(目的)に準えて説明する。後者によって傑が犯した事件の概要は省略し、現在以降に焦点を当てた内容にしている。テーマの「加害者家族」視点を暈けさず、過度に加害者本人を描かない説明・工夫か。

    鮫島の加害者本人は弁護士が付き、人権は守られるが、その家族の苦悩等は守ってもらえない、という言葉は重い。実際、加害者家族としての重荷は生涯背負うことになるだろう。また朝未に対して、同じ血は流れていても人は1人ひとり違い、決して兄が犯罪を犯しても自分(妹)も同じ行為をするわけではない。

    物語は望の解雇によって動く。世間の厳しい目に晒されながら何とか生活を支えてきたが、傑の犯歴が原因による解雇。一方、傑は淡々と平穏な暮らしを享受している。望は何となく理不尽に思える蟠りと不満が噴出。決して抗うことが出来ない現実は、いつも家族外による(無言の)圧力。朝未の誕生日ケーキを傑が買いに出かけ、帰宅が少し遅れただけで何か起きたのではないかという疑心暗鬼。社会という「分かったような分からないようなもの」を対照に置くことで家族の苦悩(物語性)が鮮明に出来たのではないか。
    アフリカの諺_物には終わりがあるが、バナナにはそれが2つ…始まりがあって終わりがある、が終わりは始まりでもあると…それは負(不幸)の連鎖を意味するのであろうか。ラストシーン、その伏線があったのか、それとも誤刺だったのか?唐突だ。

    公演は、母親(手紙)の朗読(声=美津乃あわサン)に不穏、悔悟(末期癌のため慟哭イメージ)を思わせる音楽を重ねているが、少し音量が大きいのが気になった。照明は時季による外光や1日の時間経過による諧調も巧みだ。その色調が家族という空気感と人物の心象をうまく表現していた。
    次回公演も楽しみにしております。

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    2021/07/31 08:08

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