実演鑑賞
満足度★★★★★
#てげ最悪な男へ
#小松台東
#小園茉菜 さんが「彼氏できたー」と叫びながら自転車で登場する爽やかさとは真逆の、生き辛さが充満した作品。二幕の冒頭も彼女の自転車で始まるのだけれど、カールした美しい髪が、まるで人生の歪みを表しているように見えたのは、我が心も歪んでいるからだろうか。人に纏わり付く影…負い目。それが自身の失敗ではなく家族の行為によって生じたものならば、その責任を背負わされる家族について考えると胸が締め付けられる。被害と加害。起こったこと、起こしてしまったことによる支配。それはいったいどこまで、誰にまで広がり、いつまで続くのか。そしてどうやったらその支配から逃れることができるのか。たとえ許されなくても、解放されるときは来るのか。謝罪は決して楽になりたいだけなんかじゃない。そうじゃないんだけれど…不本意ながらもそうなる部分はあって、それを突きつけられれば反論は難しい。死ぬまで過去は消せない。でも、死んだって過去は消せないし、それこそ自らが負うべき十字架を家族に背負わせて逃げ出すことであり…それは勝手に楽になろうとする行為なはず。だから…死ねないし逃げられない。人間が嫌悪する感情で発する敵意や悪意ほど恐いものはない。
言葉は難しい。この二週間で何度聞き、何度実感したことか。勇み足で溢れた一言が、積み上げてきた人生の全てを台無しにする恐怖。台無しにしてしまったかもしれない恐怖。そんな思いは二度とご免だ。そう思うと口がきけなくなる。しかし、声であろうと文字であろうと手話であろうと…自ら言葉を発しなくなったら、果たしてそれは人間としての徳を有していると言えるのだろうか。先天性のものや病や事故ではない。だからこそ、あの家に集まってきた人たちは言葉とどう向き合い、恐怖にどう立ち向かっていたのかということについて…何度も反芻している。
劇中、そのオーラを激変させたのは #瓜生和成 さん演じるフミオ。優しさと思いやりの包装紙は薄くて柔。どうやったって包んだ下心は透けて見える。望もうが望むまいが、始まった二人での生活は『支え』から『支配』に変わってしまった。時間も人の感情も残酷だ。覚えていて欲しいことは忘れ去られ、忘れて欲しいことはいつまでも記憶され続ける。
這いつくばって嗚咽して苦しむ彼の姿に身を斬られるような苦しさを感じた…が、彼の方がその傷は深く強い痛みを感じているに違いない。にもかかわらず、隣の席の観客はクスクスと笑っている。まるで世の中が彼を…そしてわたしを嘲笑っているかのような錯覚を覚えた。世間に笑われながら、地に這いつくばって、彼は…いや我々は、何を守り、何を失いながら生きていくのだろう。生きていけるのだろう。受け入れ難いことを受け入れ、忘却力を頼りに、時の経過が苦しみや悲しみを薄めてくれるのを息を潜めて待つ。
ここ数作品における主宰 #松本哲也 さんの脚本の引き算に痺れる。誰がいつどこで何をどうしたか…ということを客席は追いかけたくなる。でも、その人がいないこと、来ること、それだけが重要で、細かなことは想像に委ねられる。あの家の世界が果てしなく広がり、闇は深く深く沈んでゆく。
観客はいつだって作品と自らの共通項を見いだし、現在過去未来に結びつけ、時に教訓にもしながら、人生を生活を顧みる。それは演劇に限らず、映画も文学も、歌の歌詞からも、我々は自分を探す。安心したり、恐れたり、教訓にしたりしながら生きる。
フミオを見つめながら我が身に降りかかった災難を俯瞰していた。自分の愚かさを突きつけられながら、励まされた気がした。