THE CHILDREN'S HOUR  子供の時間 公演情報 秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場「THE CHILDREN'S HOUR 子供の時間」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    以前俳小の上演を観た時は随分寝たと記憶していたが、観ている内に筋を思い出した。独特な戯曲で、二人の女性が苦労して設立した寄宿舎付の教育施設を舞台とし、前半は善悪の彼岸にある子供達の混沌・殺伐とした世界を垣間見せ、後半は問題児の「嘘」が引き起こした出来事とその後の哀しい顛末が描かれる。独特であるのは、前半と後半とで物語の色合いが変わって来るところ。
    前半は善悪が不分明な、否「大人を騙す」事に命をかけているかのような「問題児」(劇中ではその語で呼ばれる)とそれに翻弄される生徒たちの世界が、現代の私たちが直面する「なぜ人を殺してはならないのか」「なぜ嘘をついてはならないのか」といった根源的問いやイジメという問題範疇へいざなう。対して後半では「嘘」がもたらした悲惨な結果を告発するトーンがあり、それと並行して、ここが本作の頂点というか、どんでん返しでもあるのだが、その事件によって「嘘」であったはずの誹謗中傷が、真実であった可能性について当事者の一方が内省の結果確信し始めるという、「告発」の訴状を無化する話がもたげてくる。その当事者はもう一方の当事者に語りかけて行くに従い、相手を前にそれを確信し、信頼する相手に告白するのだが、あたかも誹謗を受け止め是認したかのように自分への制裁を行なってしまう。
    この戯曲で(恐らくたまたま)扱われているジェンダー問題は、書かれた前世紀前半という時代では未だ「権利」の問題としては認識されておらず、ただこの戯曲はその存在を、辿らせた運命は厳しくとも、優しく存在させている、という点で特異な作品だと思う。
    さて男性一人、その他全て女性という芝居。配役2チームあり、主要な役もダブルとしていた。
    「子供の世界」は秀逸に描かれていた。一方大人の方は戯曲の問題(時代のギャップ)もあって硬質で演じづらい面がありそうであった。前半ラスト、嘘の張本人である生徒を追い詰め、嘘である事を暴こうとする場面で、その追及の甘さが気になってしまう。「そう訊いてしまったら言い逃れできちゃうじゃん」とか。一度他の大人を信じこませてしまった証言を、逐一反証する困難はあるが、しかし都合の良い時に泣き、被害者的態度を昂然として(まるで全身で闘いを挑むよう)とって来るその女生徒が、証言の矛盾をつかれてその証言が自分ではない別の女生徒からの伝聞であったと証言を翻したのに、教師ら大人はそのもう一人の生徒を呼び出して「それを本当に見たのか」と訊いてしまう。証言の信憑性が疑われたはずの問題児の、追及逃れに等しい証言を、疑うのでなく「真実である可能性」を求めるかのように訊き質してしまうのだ。もっと高飛車に「あなたは何を(問題児に)伝えたのか」と、訊かねばならない。もっともそう訊いたとて、転嫁した相手の女生徒の「弱み」を握っている問題児は、証言を引き出してみせただろうが。
    戯曲にある、問題児が女生徒の(嘘の)証言を引き出すためにこれみよがしに「弱み」を連想させる単語を口にする、その不自然さに違和感を持たない大人というのも、演じにくいと言えばその通りだろう。
    現代の比較的言語力・反駁力のある風情が出てしまうと、問題をスルーしてしまう事が腹立たしくなる。虚偽証言で貶められた大人は、無残に子供に敗北を喫したが、果たして反証を展開して真実を実証できるのか、という所に注目する動機付けが強く刻印される。しかし話はその「闘い」の経過を端折り、名誉毀損を訴えた法廷で敗訴した結果、人が寄り付かなくなった学校に設立者の女性二人が暗鬱に佇む場面になっている。問題児とやり合ってすんでの所で追及しきれなかった、という後味は、真実追及問題を未消化で残してしまう。難しい所だが、子供との対決では大人は子どもに及びもしなかった、という後味が相応しかったのではないか。
    その要素として、流されたデマの「内容」が当時の社会(キリスト教国である米国のとある地方)では生理的な拒絶とでも言うべき反応を引き起こすもので、いささか理性的でないやり取りが不可避に生じてしまう背景を、確信させる何か時代考証的な要素が(大変難しい課題ではあるが)欲しかったかも知れない。
    以上は戯曲上後半場面への接続を考えれば、の話である。これを現代の上演として見れば、前半の子ども達(特に問題児)の行動線はイジメの構図を仄めかして秀逸ではあった。

    ただ最後(注文を続ければ)、問題の諸々が膿を吐き出すようによくも悪くも滞留を解かれて一つの区切りを迎えた時。神経を衰弱させていた主要人物である教師の片割れが、ようやく「外」の空気を吸う勇気を得て、そっと木枠の窓を開ける終幕の図がある。光注ぐ月を彼女が見詰める時間であるが、これが少々長かった。あの尺を取るなら役者は何でもいい心の変化を見せてほしい、という、まあ小さな事と言えば小さな事だが、そういう部分を生かさない所には勿体無さを感じる。照明のアウトが単に遅れただけかも知れないが...。
    この小さな部分に自分が引っ掛かる理由は、一応ある。役者が提示すべき事はしっかりと提示されており、後は観客の想像に委ねられる領域となる・・という説明は可能だろう。だが、親切すぎない提示の仕方である方が良い場合と、真実であると信じさせる演技がもっと掘り下げられて良い場合があるとすれば、終幕に月を眺める主人公は、後者であると思う。恐らく解答は無数にあり、もしかするとふと頭に過ぎったパートナーとの楽しい思い出に小さく笑みが浮かぶかも知れない。あるいは教育を目指した若い頃、学問の神秘に向って大きく見開かれた目を、今また宇宙に向かって開いているかも知れない。あるいはただ少し寒さを覚えて身を震わせたが、それでも彼女のある強い意志が視線をいよいよ強くしていくかも知れない。涙を浮かべても良いのだと思う。そこに人間が居る、という事を確信できる事以上に観客が得られる演劇の快感は、無いのではないかと思うこの頃である。

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    2019/12/22 09:12

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