体育の時間 公演情報 玉造小劇店「体育の時間」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    中島らもが生前リリパットアーミーなる劇団を作っていた事を随分後になって知り、震災の直後にあった公演『桃天紅』(山内圭哉演出)で、らも舞台の世界を垣間見た由。件の劇団の演出を担当したわかぎゑふが元団員らと立上げた劇団を知ってより2014、2015、2019と観てきて今年は2度目だが、中島作品とは皆どれも毛色の違う割かしマジメなストレートプレイであるので、これを関東で観る意味は何だろうとつい考えてしまう。
    関西弁。約一名喋ればたちまち新喜劇臭が立ち籠める女優さんが居るが、風情ある関西弁の芝居と言えたのは前作くらい。関西弁自体に既にプレミア感は無い昨今だが。わかぎゑふ女史は歴史上の出来事を題材に戯曲を書く事が多いようだが、笑い多くフィクション性の高い演出が施される。
    今回も要所で笑わせ、役者も元気があったり達者だったり(唯一見知っていた俳優みやなおこは前見たのと全く異なる役柄に感心。)
    女子スポーツ界の黎明期を、十代が通う当時は珍しかったスポーツ専門の学校(女子体育学校)を舞台に描いた佳作である。運動選手役は一人を例外として皆男性が演じ、これが悪くない。現在のスポーツがどう成り立っているかを改めて考えさせる先人の苦労話であり英雄譚。
    舞台となった時代(大正・昭和)、古い観念や女性蔑視・処遇格差の壁に向って挑んだ先人たちを、綺麗事でない側面も合わせ描いている。そこに作者の「思い」を感じ取ることはできた。

    ネタバレBOX

    「秀作」でなく「佳作」の語にとどめたくなる原因を探ってみた。「悪い人」が出てこない。醜さ(運動なんかやる女はそうだ、との言い)を描いたのは勇気であるし、男性が演じることが緩衝材となり客はためらい無く笑うも可となる。だが歴史を作った人達を「讃える」物語すなわちプロジェクトX(今はプロフェッショナル)は、取り上げた対象そのものが孕む問題でケチを付けづらい空気を作る。同じスポーツでも日本では全体が揃って動く規律を重んじるが、そうでない在り方を探る契機はこの芝居にはない。私は「メダルを幾つ取るか」を言い募る五輪報道の在り方にスポーツ界の腐臭を嗅ぐ思いがする。
    劇中戦前のロス・オリンピックでメダルを取った有名な前畑秀子が体育学校を訪れるシーンがある。「私は天才」を連呼しながら自分を鼓舞し・・と笑えるシーンを置いた後、再び登場して主人公の走りに才能の原石を見て声をかける。先に主人公から「水泳は好きですか?」とシンプルな質問を受けて固まってしまった前畑が、その質問に答えるのだ。「天才となった瞬間から私にとって水泳は自分だけのものではなくなった。使命があるの」。国威の発揚、戦争の代替手段として戦う、といった「使命」のもと過酷な訓練に耐える日々を送る一流選手の像が浮かんで来るが、「これを美しい姿と感じてしまって良いのか・・?」という素朴な疑問が湧く。彼女らに期待しているのは誰だろうか、と。
    この芝居のもう一つの評価点は、スポーツ専門の学校運営のため金策に奔走する校長の姿。スポーツをやるには「金」が要る事を(笑にまぶしているが)赤裸々に描いている。「汚い面」と見えなくないが、それはスポーツも人気商売、「好きな事に打ち込むこと」を許される言わば特権的立場か否か、という尺度があるという事でもある。
    能力を伸ばす事は人の自然な感情に適っており、(厳しい訓練であっても)それに打ち込む事が、目的でありたい訳である。ところが国のためだの、応援者のためといった別の目的が(自ら望まず)生じた瞬間、苦しいことの言い訳に「使命」は使われ、使命のための労苦を何かで代償しようとする交換の余地が生じる。
    本来「好きな事」に専念することが許される実力を持ち、それに対する応援者が現れる(即ち人気を得る)、シンプルな交換関係であるのに、なぜそこに「使命」が必要であるのか。「使命を背負うこと」で得られる利得は何か。いかがわしさが見えて来ないか。
    そして舞台のラスト、校旗と日の丸を両手に持った生徒たちが校歌に合わせて踊る名物踊り披露される。日の丸の好き嫌いは人それぞれだが「何のためのスポーツか」を考える時に日の丸では、如何にも無神経な印象が残る。
    娯楽性が高いか否かは好みの問題だが、別の在り方を見せる・当り前を疑う視点の有無は私には演劇の生命線。という意味では、現状追認な本とも言え、そこに淋しさがよぎる。

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    2019/10/06 05:54

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