満足度★★★★★
「命の意味」を考えたコトがない人はいないだろう。
日常に忙殺され棚上げされがちな難題だが、演劇の中であらためて提起されることは珍しくない。ある種の演劇ならそれが使命と言ってもよい。
「#雨降る正午、風吹けば」
は間違いなくその種の物語だ。
物語の主人公は父の亡霊に苦しみ、人生の意味に迷う。
「死ぬために生きている」と言う。
真実だが真理ではない。
私個人は兎にも角にも半世紀を生きた。その経験上、すべてとは言わないが「命の意味」が存在する場所のひとつを見つけたと思っている。
-- それは袖擦れ合う人の中だ。--
解りにくければ立ち場を入れ替えればよい。
記憶を辿れば過去に出逢った様々な人がいくらでも思い返される。
ただ一度待合いのバス停でほんの一言交わしただけの人が深く印象に残っていたりもするから人生は不思議で奇怪なものだ。
どこの誰だか覚えてなくても、自身の生き様に何かの影響を及ぼした言葉だけが残っているなんてコトもある。
ならば誰かの「命の意味」は他の誰かの記憶の中で息づいているのだと言えよう。
一箇所に集約されるわけはない。様々な土地で人生を通じて関わった人々の中に散り、二度と1つになるコトもないだろう。
だが、それは紛れもない「命の意味」なのだ。
主人公は偶然拾った少女との関わりでお互いの中に育つ命の意味を知ることになる。
皮肉だが人生の期限が迫る中、初めてとも言える生への執着が彼の身を焦がす。
私は人生に絶望した事がある。ほんの小さな責任すら果たせないほど気力を失った事もある。
貴重な経験だったと思っている。
その経験こそが命の意味の一抹を教えてくれたからだ。
思えば「死」は「命の意味」を知る最良の刹那なのかも知れない。
人に説く気はない。
死が避けられない宿命であるように誰しもが知るべくして知る事になるからだ。
だがその真理をより深く知るためにしておいた方が良い事がひとつある。
生きる事だ、1秒でも長く。
主人公が物語の最期に少女の問いに答える場面があるのだが、役者がセリフを吐く前に私の心にそれはあった。
「生きろ」
それ以外に伝えなければならないコトはないのだ。
この物語を書いたのが21歳というのは信じられない。ある意味病んでる。
生きたままこの境地を獲る者は選ばれし者だとしか思えない。続作が楽しみでならない。