アジアの女 公演情報 ホリプロ「アジアの女」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    長塚圭史作品はカウントしていないが三、四作目と思う。いずれも荒廃した風景の中、外部との連絡困難であったり食糧難だったりの状況で人間が這うように生きている様が描かれる。コクーン規模の広いステージでは初めて。新国立への書き下ろし作品という。東日本震災前(2006)の作品だが、近未来の関東大震災後というディストピア劇の舞台の背後には、フレコンパックが置かれていた。
    初演のレビューを覗くと随分ニュアンスが違う。最大のポイントは、災害や窮状が人間を活性化させる「震災ユートピア」の皮肉を評者は芝居から読み取っている。
    石原さとみ演じる女は立入禁止区域で兄(山内圭哉)と共に暮らし、遠くない過去に精神を病んでいたらしい形跡(認識の混濁)があるが、行動の性質は未来志向で積極性を帯び、やがて外国人集住地区で活動する男を慕うようになり、彼のために尽くしたいのだと最後に兄に告げる事になる。その前、兄は、彼女に思いを寄せラブレターを渡す若い警官に、両腕に無数の傷跡を作った阿鼻叫喚の日々を語り、恋愛への発展に釘を刺す。だが兄は妹を保護する役回りであるかにみえ、実はアルコール依存となり希望を捨てている。震災後の物理的な荒廃は、多くの例に漏れず彼を鬱にしたが、妹の方は逆に震災を契機に活性化していく・・。先の評者はその対比を読み取った訳だ。
    初演の時点では「震災」とは阪神淡路大震災であり、災害ユートピアという言葉もよく聞かれた(当時は否定も肯定もない一般概念として用いられていたと記憶する)。
    妹のためにあろうとしながら酒に溺れ心に闇を抱える兄の佇まいは秀逸で、表面上「悲劇的」な場面は全くないが「こういう人いるなァ」と思わせる人物がそこにあり、彼にとっての如何ともできない状況がじんわりと見えてくる、否、想像される(実際人の心は想像するしかない)。山内圭哉の俳優力を初めて実感。

    ところで東日本大震災を経た現在の私たちには、この舞台は近未来ではなく現実の延長である。大震災を(たとえフィクションでも)上のような議論を喚起する道具立てに用いる気にはなれない。初演はそもそも今回とは芝居の組み立ても違っていたのではないか、と想像するが、資料はない。

    物語を紡ぐ瑞々しい言葉が、ダメ小説家であったはずの男の口からこぼれ出る場面で、作家長塚圭史の作家たる証をしかと見た。

    ネタバレBOX

    石原演じるアジアの女はこの世では特異である所の「純粋さ」を持つ。(これを印象づける幾つかのシーンがあり、信じさせる演技も中々。)
    「病」の原因となったであろう繊細さを保持しながらにして「病」を脱し、羽ばたいていく姿を神々しく眺めるほどに、彼女という存在の誕生は、地震がもたらした社会の崩壊によると実感される事実は、先の評者の言を裏付けるだろうか。
    「震災ユートピア」の意味合いを少し考えてみた。
    1.震災時=非常時の気分的な高揚は、確かにある。
    2.「誰かの役に立つ実感」の機会、即ちボランティア活動が被災・被害によって可能になる。
    もう一つ。3.震災前の社会にあった消し難い病理が、自然の脅威により駆逐された。

    3に着目。災害に備えよ、とか、テロに備えよといった防衛的な構えを促す風潮は、実は改めるべき「現在」の問題から目を逸らせるばかりか、「現在」が正常で良い状態なのである、という前提を知らず知らずに受容させる。何となく「現状に異議を唱える」事が憚られる。そういう効果がある。
    今の日本社会もかなり「病理」が進んでいるが、この「進み方」も含めて膠着した状況は、恐らく人間自身の手では改める事は出来ないんだろう(今までやれなかったのだから)。
    防災の視点と、災害を戒めとする視点はベクトルが逆である。
    ユダヤの神はかの民族をその罪に報いて何度も滅ぼしたという。懲りない人間の歩みというのは、「こじれた状況」をリセットする超越的な他者を必要とする、という事か。

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    2019/09/22 04:01

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