満足度★★★★
久々二度目のフライングステージ。公演を直前に知って運よく空き日に観劇できた。一回目は2016年「新・こころ」(初演2008)で、その頃よく名を目にしていた関根信一の正体は・・?と思っていたら氏主宰劇団の公演情報を知ったので新宿はspace梟門へ赴いた。実際はその一月前に舞台上で役者姿を目にしていたり、その後の演出作品・講師を務めたワークショップ等、等で正体不明でも何でもなくなったが、ただフライングステージという劇団の謎めきは未だ私の中にあって、また関根氏の演出にはスッキリと理に適った処理の跡が感じられ、気になる事の一つだった。
果たして舞台は二年前観たのと同じ独特な風合い(悪い意味でない)があった。「gayの視点」という事が大きいと思うのだがそのわけは、俳優が舞台上に立つ時(客演もいるし劇団員が必ずしもゲイとは限らないと思いつつも)「当事者性」が香り立つ(観る側の勝手な想像で)という効果が一つ。今一つは、これが重要に思われるが、ある事柄についての「共通了解」を持たない客を想定した提示の仕方(場面の切り取り方や言葉のチョイス)。gayという生き方に纏わる問題(差別・マイノリティといった)を学ぶ副読本かと思う程分かりやすく、前回観た「新・こころ」がやや婉曲表現であったというのもあるが今回はテーマを逸らさず直球であった。問題を立て、それを整理するような具合に、「物語」も一場面一場面が簡潔にまとめられて進む。「誤解」を生みやすい事柄を「説明」する順序の大事さ、周到さにおいて関根氏自身が手練れなのだろうけれど、無駄なく、キャラが明確、悶着あって鎮火、また何かあって落ち着く、という起伏を受け止める潤滑油に笑いがさり気なく、きっちりと仕込まれている。そうして物語はある逃れられない根本的な問題を浮かび上らせる。
普遍的テーマとして表現すればそれは「人に知られると不利益な真実」を抱えた個人と他者との関係のあり方。教育実習生として訪れた学校で主人公の青年は、全校集会での挨拶で「自分の事」を生徒に話しておきたいと希望したが教頭に反対され、他の教員が集まって討議したが結果的に彼は自らその希望を取り下げた、というのが冒頭。以降「彼ら」を見舞う困難によって最終的に、状況の側から「賭けに等しい選択」の道が主人公に用意され、彼はそれに応じるように、進み出る。
本作の解説にもあった米映画の王道と言えるドラマのモデル(感動しつつも日本ではああは行かないよな・・と嘆息が漏れるアレ)が思い起こされるが、言葉を選ぶように発する青年の台詞を、観客は一音も聞き逃すまいと注視していたと思う。・・二週間の実習を終えた月曜、全校集会で主人公は別れの挨拶をする事になっていたが、目の前にいる生徒の間から侮蔑語を投げつけられた事で、彼は逆に自分が本来そうしたいと願っていた言葉を言うのである。勇気を奮ってひと言目を声に出そうとする瞬間、葛藤や恐怖にふいに襲われ、一瞬だが言葉に詰まる。それまで表情に出さないタイプに見えた彼が初めて動揺を走らせる演技には「真に迫る」もの・・手垢のついた言葉だが・・があった。
人が持つ感情をさらりと見せるその瞬間は、それは演劇が普通に持つ力だが、この場合「露見」と言うに等しい。この舞台で持ったインパクトの背後事情は、こうだろう。・・「共通了解のない観客」を想定した、事実を淡々と描写して進行する劇とは、我々の現実>日常感覚から逸脱をしないという事である。「台詞によって説明された状況が役者の身体・顔で後追い的に説明される」と見える形式は、人物を作り上げる演技アプローチと異なり、淡々として見える代わりに、物語の饒舌な語り手となる。高校生同士のやり取りなど戯画化されているが、ボケと受けの掛合いで言うと戯画的形象(ボケ)は受ける側の真実を浮上させるコミット法、笑えるのはリアルが浮上するからだ。
たとえフィクションでもこの物語は恐らく「当事者」にとって日常の、現実の延長にある事を免れない性質の事柄だ。それゆえ殊更心理を説明しない情景描写(現実の光景を見る感覚を逸脱しない)にとどまる事が要求されるのではないか。
青年が一瞬見せた動揺(表現としての)は、テキストの指示に対する身体的「説明」ではあるが、抑制された物語叙述から「露見した」かに見えた(彼ら側からすれば「さらす」事となった)表情にはテキストが必ずしも要求していない(それが無くとも成立する)余剰が見え、それだけに際立った。観客は「事実」を受け取ったに近い出来事としてそれを見たと思う。
清々しく舞台が終わり、立ち並ぶ演者たちの表情には、観客である私達が感じているのと同じ地平にある風情があった。お金を取って舞台を努め「させて頂いた」と、恭しく礼をするのでも、お互いで濃密な劇場を作り上げた共闘者に向ける笑顔の挨拶でもない、素朴で愛着のある表情だった。