「ムイカ」再び 公演情報 コンブリ団「「ムイカ」再び」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    コンブリ団の名は中京地方で独自の活動を展開するジャブジャブサーキットの舞台に(少なくともここ10年は)ほぼ毎回出演している車イスの役者はしぐちしんの所属(主宰)劇団として目にしていた。どこかで公演情報を見て「ちゃんと活動してる劇団なんだ」と判ったが、主宰が作・演出を行なうらしい事以外ほぼ知識ゼロ。OMS戯曲賞作の上演、しかも初の東京公演というので観劇した。
    まずこの「初の東京公演」の、劇団の当人たちにとっての意味がもっと伝わって来たいと思った。のっけにこう言ってしまうと芝居単体では観客をねじ伏せられなかった、という側面が強調されそうだが、そう単純でもない。作る主体と舞台の内容との関係は切り離せないし、公演形態の選択も作品と不可分であったりする。つたなくとも「新人公演。応援よろしく!」でまとまる(それには価格も安くせねばだが)公演もある。地方から作品を引っ提げて大都市で公演を行なう場合、異文化との遭遇の機会という面がある。「才能発掘/アピール」という面も「成功」を夢見る向きには重要だろうが、(地方に限らずとも言えるが)演劇とは総合芸術であり作り手の固有の何かが結実するもの。「文化」は佇まいから漂って来るものだ。

    さて「ムイカ」は解説にある通り広島に原爆が落とされた8月6日を指すが、この舞台では生死を分ける「時」としての原爆投下を象徴として捉えながら、人生の選択の局面や、生へ向かおうとする精神の風景を描いたもののようだった。固有名を持つ人物が、居るのかいないのか(居るとすれば一人、衣裳でも違いが判る女性)、人物を軸としたストーリーが現実世界に着地するべく描かれたテキストではなく、象徴的なシーンの連なり・重なりから、あり得る様々な「現実」を観客の想念の中に見いださせる、そういうテキストになっている。
    終盤にイメージが集約していく流れがあり、照明が煌々と照って「現実」と地続きになるグランドゼロに上昇した所で、終幕、というまとめ方であった。ある事をギリギリまで語らず、結局語らない(だが観客の中に何かが生じる)、この「態度」が、この作品の評価の核になるのだろう。

    アフタートークがあった。名前をみれば土田英生、テイストが全く合わないな、と感じた通り、ズルズルなトークになっていた。京都の学生時代に「演劇」分野で世代がかぶっていて、土田氏のほうが先輩なのだとか(見た目や何かは逆なのだが・・)。

    ネタバレBOX

    芝居の難点。まず「ムイカ」の時間が短いこと。
    冒頭はしぐちしんの観客への語りから、他の人物らが登場し「(舞台側の)我々と(見ている)誰か」の関係をいじる遊び、そこから「ムイカ」の物語に移行していくのだが、観客・舞台の相対化と、本編との関係はさほどスムーズではない。もっともこれがコンブリ団の「言語」なのだとすれば、その完成度を上げてもらうしかないのだろうが、この問題は次の難点にも繋がる。
    即ち、役者の演技、あるいは演技態が、厳密な意味で確立されたものだろうか・・今少し強度が問われている、と感じた。この劇世界を成立させるための象徴的な場面を演じることと、感情の裏付けをしっかり持つこと(精度を高め、鋭く表現する)とが両立し得ないものとしてあるとしたら、少し淋しいように思う。たとえ「相対化」をやりきる事を旨とするのだとしても、またその流れで本編に入り「相対化」の演技から言葉のニュアンスが浮上して劇世界をやがて形作る、という目論見なのだとしても、(象徴的作りであるだけに)言葉・発語の「力」がもっと欲しいと感じる。メソッドの問題だろうか。
    はしぐちしん自身が登場する事は、テキストを体現するためには最良であり宛書きも入っているかも知れないが、テキストがより高みを目指している印象から、他の者に語らせる事を考えて良いのではないか・・と勝手ながら意見を持った次第。

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    2018/05/27 10:06

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