ゴドーを待ちながら 公演情報 Kawai Project「ゴドーを待ちながら」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    こまばへやってきたゴドー
    原田大二郎のウラジーミル(ディディ)、高田春夫のエストラゴン(ゴーゴ)が自由に動けるスタンスで時折前方を眺める、即ち観客を睥睨する。時には極接近して目を合わせたり若干声をかけたりする。この距離、狭さ、こまばくんだりまで興業にやってきた感覚?
    特に原田氏の、身体の角度、表情、意図的な演技は、演劇における「見せ物」として成立、心情が(作られた)キャラクターと一体となってどんどん入って来る。
    あまりに有名なこの作品を何度も観た気がしていたが、実際は十数年前世田谷パブリックで柄本明、石橋蓮司、片桐はいり、松村克巳のを観てその後戯曲を読んだのみ。その舞台も当時は第一線俳優の舞台など興味なく友人に誘われて付いて行き、大半眠ってしまった観劇だった。二人のキャラはこんなに違っていたとは・・・同じような境遇の男が二人、とぼけた会話を延々とやっていると思っていた。
     ・・その舞台は最初二人が「いかにも」な、つまり「お芝居ですよ」と判る結界のごとき枠の中に入って、「さあ、どう出る」と挑むように見合って始まった印象がある。素を出して笑わせる瞬間はいかにも「知ってる」間柄の空気、どうも好きに慣れず、しかも本編の芝居とは繋がらない。必死に台詞を出して、名高い二人の俳優の「競演」を、汗を流すスポーツのようにやってどうする。台詞を必死に出し合い、とちった回数の少なさを競う競技のレベルに下げた、と感じた瞬間があったように思え、その印象は「そぐわないもの」として素人ながらに記憶に刻まれて、今思い出している(記憶の書き換えなるものがあるいうから要注意ではあるが・・)

    ポッツォとラッキーのくだりは戯曲の謎を深める要素で、今回も興味深かった。桟敷童子の稲葉能敬のラッキー。桟敷童子の役者の客演舞台を最近複数目にしたが、「桟敷童子らしさ」は演技の土台になっていて、ある種の信頼感がもてる。ポッツォ(中山一朗)は戯曲から湧くイメージにピッタリの造形で、台詞も秀逸で作者の才能が迸る部分である。自らのアクションが相手(主役二人)に及ぼす影響を鋭く察知し、ないしは彼流の理解の仕方で理解して先回りした心遣いを彼流の仕方で行なう台詞を迅速に置いて行く。それらの言葉全て己の優位を確信するために吐かれていると見えて、実はナイーブな実態が、後半の展開と合わせて見えて来る。
    この、「どうでもいい」人達の顛末が、「変化」を強烈に奇天烈に暗示しながら、主役二人にも訪れる「時間」の存在を思い出させる(普段は全く忘れているかのようだ)。
    何につけ悩んでしまうゴーゴを気遣うディディ、二人の会話が「そろそろ帰ろう」という展開になると必ずディディが「ゴドーはどうする」と思い出したように言い、この時ばかりは相手を難じる事なくゴーゴは、「そうだ・・」と言う。
    「ゴドー」はゴーゴにとっても否定し得ない、というか肯定的な何か、と想像する事くらいしかできないが、二人の間だけで出来上がった代物でない事が、子どもの登場で知らされる。「ゴドーさんは今日は来られなくなった、明日は必ず来る」と伝言を授かったと子どもは告げる。第三者も知っている存在、それがゴドー。
    一幕ののんびりとした時間に比べ、二幕はよりゆっくりと時間が流れ、薄暗く重くもの悲しい。相変わらず会話を交わし続ける二人だが、そこで語られている事は何なのか、何を証そうとする行為なのか。
     恒久の時間の中に、今二人が確かに存在し、出会っており、時間は未来に向かっていること。それ以上の事実は何もない・・。存在する事の実態を言い表わすとすればそんな程度でしかない、それを悲しいと感じるなら悲しいし、それでも未来に希望を見出すというならそれもいい。・・様々な思いが心の奥底に潜んでいるようにも想像される二人の姿が、モノトーンの照明の中で静かに浮かび上がっていた。終幕。

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    2016/11/02 08:32

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