Woodcuttersー 伐採 ー 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「Woodcuttersー 伐採 ー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    芸術家にとっての「桜の園」はもうない
    それは伐採されゆく運命にある。

    上演時間260分!
    休憩20分込みだが、実際には270分を超えたと思う。

    いわゆる「お通夜の席」での出来事。
    まあ、日本でも映画や演劇でよくあるやつだ。

    ネタバレBOX

    主人公が体験した一夜を軸に「芸術家」と呼ばれる人々の触れてほしくないのに触れなくてはならない「場所」が、痛みを伴いながら語られる。その「痛み」を感じる人が「芸術家」なのかもしれない。

    ガラス張りの大きな箱が舞台中央にあり、それが回転することで場面展開をしていく。
    あたかも彼ら「芸術家」たちが、ショーケースに入れられて衆人環視されていることを表しているようだ。自己顕示欲と相反する状況。
    その中で彼らは「芸術家」でなくてはならない。「芸術家」とは何者なのか。「芸術家」として存在するには。
    知人の死を悼む、いわば「お通夜」の席で痛々しく剥がし、剥がれてされていく。

    日本の映画や小説、舞台にもよくある手法である。亡くなった人について語るうちに、感傷的になりさらにアルコールの酩酊と疲労によって、言わなくていいこと、本音が飛び出してくるアノ瞬間である。

    芸術を志し死んだ者についての「幸不幸」は、「芸術」と切り離して語ることはできない。したがって、つい芸術家である自分たちの姿と重なるのではないだろうか。
    特に自分たちの不幸と。
    だからより感傷的になりやすく、亡くなった彼女をよく知っている者にとっては気分を害する内容となり、さらにその話が自分に及ぶことになってくる他の芸術家にとっては、自己を守るためにさらなる言葉を尽くすことになる。

    主人公は常に芸術家たちの話から離れ、観察をしているように描かれているが、実際は、彼も彼らと似たようなことを話していたに違いない。
    小説にするにあたって、自分だけ「安全圏」に置いたように見えてしまう。
    そして、自らを語らせるのだが、それは自分のことではなく「芸術家たち」のことであり、少し卑怯だなと思ってしまう。

    後半は互いに自分の傷を見せ合い、そして相手の傷をえぐっていた彼らにとって恰好の標的がやってきた。

    「国立劇場」という大きな後ろ盾を持った役者に、「私」である作者は(この小説の中で)どうでもいい自慢話をさせ、俗物として描く。
    彼は集中砲火を浴びることになるが、それはまた不安定な地位と収入の自分たちの「妬み」であって、それが自分たちに降りかかってくることになるのだ。

    自傷し傷つけ合う芸術家たちには出口はなく、自らの「芸術」で落とし前をつけようとするわけではない。
    それは「年齢」が関係するのではないか。
    主人公があとで若い2人の作家を褒めるのはそういうことではないか、とも(2人の作家は、ジェイムズとジョイスだったような気がするが聞き間違い?)。

    途中に回想として差し挟まる映像シーンがとてもいい。映画のようだ。このまま映像でずっと観ていたいと思ったほど(笑)。

    台詞は、特に後半は「話し言葉」というよりは「書き言葉」の印象が強く、やはり小説で読めば面白いのではないか、と思ったが、小説で読むのもキツそうなので、このまま黙って椅子に260分座っていたほうが正解かもとも思った。

    主要登場人物のほぼ全員が(女主人を除く)、必ず激し、激しい口調で台詞を言うというのは、平板になりがちな作品の構成を考えてのものなのか、あまりにも順番で各1回ぐらいあるのには、残念感があった。
    まあ、それがないとこの上演時間だと厳しかったかもしれなのだが。

    気がつけば前半の休憩になり、後半も実際の時間よりは体感時間ははるかに短く終了した。
    どうやらこの時間を集中して観ていて、面白かったということなのだろう。
    全体を見終わった後も、思った以上に疲労感はなく、徒労感はまったくなかった。
    正直に言えば「面白かった」ということになる。

    字幕上演の常なのだが、字幕と役者のリンクが悪い個所がかなりあった。
    特に劇場のことについて国立劇場の役者とやり合うシーンは、まったく字幕なしで進んでしまった。

    しかし、何をやり合っているのかは、会話のきっかけでなくとなくわかっていたのだ、「まあいいか」と思った。それよりも彼らの演技の凄さを感じることができだのだ。

    字幕を追うことで、ストーリーのことばかりに気を取られていて肝心の役者をきちんと見ていなかったようだ。
    映像のシーンは映画のパターンなので、そういうことはないのだが、字幕は出る位置との関係もあり、なかなか不自由なものなのだ。

    改めて役者の演技を見ると凄いのだ。
    全身でなり切っていて全身から感情と台詞が出ている。
    主人公の演技も素晴らしいものであった。

    ひょっとしたらきっかけの台詞のある部分だけを抜き出して字幕にして、あるいは国立能楽堂の字幕のようにその場面のあらすじだけを字幕にして、あとは舞台の上に集中させほうがいいのかもしれない。そうでなければ、イヤホンガイドによる吹き替えとかのほうがいいと思う。たぶん台詞の1つひとつがわからなくても(文字数の制限などもあるから、字幕にしたところですべてを訳しているわけではないだろう)、演劇に関しては楽しめるのではないか、とも思った。

    舞台の上で、ふいにする人の変な声(最初は前のほうの観客が発しているのかと思っていたが)、口からつい洩れてしまう吐息のようだったりため息のようだったり、鼻歌のようなものだったりする「声」が、とても気持ち悪く、不安と不快を表現していた。特に主人公が発していたようだ。

    ときどき点灯する客電も、舞台の上の彼らの姿と観客の姿を、強制的に重ね合わせるようであり、それは左右前の観客がなんとなく見えているように、暗闇に隠れ守られていたはずの自分も見られている感覚が強く働き、身じろぎもできないような不快で不安なものであった。

    こういうシカケが上手い演出なのだと思った。


    セットは、先に書いた中央の箱と、その背景にある町並みがある。これが単なる書き割りではなさそうで、この出来の良さにも驚いた。

    「伐採」は「伐採の音」という字幕も出ていたが、彼らの背景はその町並みからいつの間にか煙る森の中にあり、これが伐採されるのだということを暗示させられる。

    伐採されるのが、「桜の園」の「桜」であれば、彼らにとっての伐採される運命の「桜の園」は「芸術」であり、その安住の地はなくなっていくものであることと、「カネ」に変わっていくものということ暗示していたのではないか。
    それが主人公にとってのジレンマであり、芸術家を常に悩ませる命題でもあろう。

    彼ら老芸術家にとっての芸術は、ノスタルジーの中に花咲いていた栄華であったということだ。
    若い芸術家や、彼らの芸術家たちのパーティの場から怒りとともに去った者にこそ、新しい芸術が生まれるのではないかということも示唆していたように思えた。

    ラストの「これを書かないで」と女主人が主人公に言った台詞には笑ったが、老芸術家である主人公が生き延びる方法として、悩んでいた彼が結局「この状況が面白い」と気づき、それを小説として書くことになったというとは、とても興味深い。とてもしたたかであるのだが、頭でっかちに「芸術とは?」「芸術とは!」と悩んだり口角泡を飛ばすのではなく、「書きたい」という「初期衝動」に駆られて芸術は生まれるものである、という結論にも見えた。

    そして、彼らに小説で与えた「痛み」が、彼らの「芸術」の根幹にあり、その「痛み」をきちんと感じることのできる人が「芸術家」なのかもしれないということなのだろう。

    そして、私にとっての「桜の園」は何なのだろう? ということにも考えが及びそうだ。

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    2016/10/23 17:12

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