太陽 公演情報 イキウメ「太陽」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    イキウメの再演は新作のように新鮮
    初演との比較・・・強調点が絞られ、際立ち方が変わっており、同じ戯曲なのに着地の仕方が違う、と感じた。その、あれこれは、また。
    示唆深い隠喩にあふれた、「人間」を問うSF。
     

    ネタバレBOX

     webを中心に情報を得て芝居漁りを始めた頃、以前NHKシアターコレクションが取り上げていたイキウメのサイトにも訪れ、「観たい、観よう」と思った時点でちょうど終わっていたのが『太陽』だった。幸い台本が売られていたので購入、面白く読んだから、蜷川演出版も楽しみに観た。高額な舞台に初めて手を出した。
     その後DVDをゲットしてイキウメ『太陽』初演も観た。戯曲を読んだ印象に近かった。全体のバランスが程よく、ノクスとキュリオという人種の創作と、これに派生する様々な問題群をドラマに書き込む才能にも感じ入った。

     差異を乗り越える感動が、この作品の核だが、一方で差異の存在に驚き、おののく人間の現実にも直面させる戯曲だ。
     今や人間は生物学的に同じ種だと、文明社会に生きる我々は知っているが、かつての人間にとっては、異文化との感覚的距離は相当なものだったのではないか。その原初的な恐れの感覚を、イキウメの未来の物語は観客に提供する。見事に、「新種」であるところの人間=ノクスを、描いている。
     論理的な正しさを端的に受け入れる前向きさ、強さ、「自我」に固執せず・・・といった性質は、何かを想起させるが、ざっくり言えばアメリカ人的?もっと言えばアンドロイド的。
     ところで前向きとは何だろう・・? 彼らは経済的に恵まれており、恐らく効率的な生産と分配を実現しており、利権を独占しようとしたりといったキュリオ的な非生産的・非効率的行動をとるものは彼らの中に居ないとか、そんなことも仄めかしている。
     だがその効率の目的は・・・種の再生産、子を産み、子孫の繁栄へとバトンを渡すことが種の、生物の究極目的だ、と割り切っているのだろうか・・・皮肉なことに彼らの出生率は1%から伸びず、殆どがキュリオからの養子、人口はキュリオのノクス化で増えているが、ノクスがノクスだけで繁栄できる基盤は出来ていない、などの問題も終盤に語られる。だがそうした事実は伏せられており、一般の人間(キュリオ)にとって、彼らは畏れ・憧れの対象である。昼間出歩けないというノクスの決定的な欠陥は、キュリオに有利であるし、ノクス優位の社会になっている裏づけは説明されないが、「事件」を起こしてノクス社会との交流を断絶(経済制裁)されたこの村が、荒み凋落した原因は「ノクスでなく、あなたのようなキュリオのせいで、自滅しただけ」と、10年ぶりに現われた「事件」の張本人に、子の世代に当たる二十歳の娘が訴えた言葉からは、様々想像させられるものがある。
     その娘は、ノクスとなってもう居ない母親の再訪をきっかけに、養子縁組を希望され、劇の最後の段階ではそれを受け入れる。キュリオがノクスになるにはワクチンを打ってノクスの血に感染しなければならないが、高齢になるほど困難になる。そこで若者にノクス化の枠を与えており、この村では年一度の抽選にたった5名の若者の中から1名が当選するという幸運な確率が話題にもなっている。「事件」を起こした男の姉は、父にも自死され一人で負い目を引き受けて村に残ってきた。その息子は自分には(お茶以外)何のとりえもないと感じ、ノクスに憧れ続けている。一方、娘の方はさほどノクスになることに関心がなく、ただ父親が娘に楽をさせたいとノクスになる事を願っている。
     実の母親からの誘いに、娘は最後の抵抗をする。四国ではキュリオの独立社会を築き、政府も機能しているという噂があり、一度見てみたいのでそのお金を用立ててくれ、と要求する。キュリオでいる事の正統性をどこかで信じていた娘だが、母の夫から先日視察で訪れたという四国の状況を聞いて、その説得力に幻滅を否めず、ついに抗う根拠を失い、ノクス化を承諾してしまう。
     その日。医師の立会いで、ワクチン投与と血の咬合が行われ、悶え苦しんだ末に娘はノクス化する。その結果が舞台上に明らかになるのは、村の父たちの居る場所を訪れた、新しい父と母に付き添われた肌も色白になった彼女である。その変貌ぶりが、怖くも悲しい。そして、父は娘を永遠に失った事を知り、号泣する。

     さてもう一つの、というかこの芝居の中心エピソードは、村の境界での門番となったノクス男と、先の息子との交流だ。このノクス男の言動も、ノクス的人格をうまく表現している。論理的に考え、それをそのまま言葉にする。だが彼はキュリオに敬意を持っている。ノクスにはキュリオのような絵や文学を生み出すことはできない、キュリオの芸術は素晴らしいと考え、言わばリベラルだ。これは、別のノクスがキュリオの欠点に対する軽蔑を抑えられないと吐露するのとは、異なるノクスの例になる。門番男は、息子の「友達になりたい」との申し出に、応じる。断る理由がないから、という感じである。そして二人は互いの益となる物品を交換し、対話し、本心も打ち明けるようになり、最終的に息子がノクスへの憧れが自分への劣等意識に発していることもぶちまけ、それでも「キュリオは素晴らしい、君も素晴らしい」と言って憚らない彼に苛立ち、不満をぶつける。「じゃあその俺はなぜ幸せじゃないんだ!」「君の弱さは、君の問題だ。キュリオかノクスかの問題じゃない」冷徹に突き放す男の対応がノクス的だが、それでも息子に語り続ける男に、飛びかかっては投げられ、力つきて泣く息子。
     ある時、10年前の事件の張本人、息子にとっては叔父に当たる男が村に戻ってくる。そしてその事件と同じことをやる。息子と門番男が仲直りして、じゃれあっているのを見て、「何かもめ事ですか」と介入し、門番男に手錠をかけてしまう。「今、もめてたよな?」 そうじゃない、と言ってもきかず、「夜明けまで、1時間もないな」と言って去る。手錠を切るための一騒動、最終的には腕を切り落とすが、このあと叔父が現われ、この十年が何であったかが語られ、悪びれる事もない弟を制裁することを、姉は許す。息子と、娘の父が叔父にかかって行くが、最後には、門番が流した血にしこたま顔面を浸し、「何だ、これ、おい!」感染した男は悶え死ぬ・・・という一幕もある。
     そして、娘のノクス化を経て、息子が最後にとる行動は・・・・

     この作品は、「人は皆同じ」と、本当に言えるのか・・と問う。
     戯曲は差異・差別の視点だけを追うのでなく、「太陽から背を向けて生きる人種」としての悲しい宿命に、気づきつつあるノクスの「心」も描き出している。
     差異の克服という視点と、二分された両人種の本質的な差異という、この二つの視点が交錯し、示唆深い場面が重ねられて行く。 とめどなく流れる「人間的な」感情が、それとは異なる存在との対比で、これほど美しく目に焼きつくものだとは・・・・文句の言いようのない舞台。

     村に生きるキュリオの肌の色が、小麦色で美しかった。(特に両女優)

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    2016/05/28 02:16

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