青春の門〜放浪篇〜 公演情報 虚構の劇団「青春の門〜放浪篇〜」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    恥ずかしい台詞も数打ちゃ?
    大島渚の映画(「日本の夜と霧」など)に大学生の頭でっかちで意気がった左翼的な台詞が頻出する。独特の文体だ。それを思い出した。劇中にある「学生嫌悪」の対象としてサンプルになるのは、三島由紀夫が東大で全共闘学生と交わした討論の映像(本にもなっている)。これを見ると、頭の回転の速さや思考の周到さを競ってるような、それでいてどこか「明るい明日」を信じていて、君たちの本質はその「安心」の土台にあるのだろう、その居心地の悪さを払拭しようと悲観ぶったり理屈をこねくり回してるのだ、それでいその言動は結果的に君たちの得るべき地位を正当化しているんだぞな。。そんな突っ込みをしたくなる発言、要は「恥ずかしい」台詞というものが、かつて日本にもあった。(もっとも彼らはその世界観の中では真剣であったに違いないし、議論しない現代の日本の方が病んでいる。ただし議論の内容の吟味は別の話)
     「キューポラのある町」とか「青い山脈」も戦後らしい気恥ずかしさを醸すが、微笑ましい。これに輪をかけて屈折させたのが、上のそれと言えるか。

     鐘下辰郎が中原中也・小林秀雄らを題材に書いた作(汚れつちまつた悲しみに・・)を、先般桜美林大で観て圧倒された記憶が生々しい。こちらは昭和初期の文人たちの言動で、中原の一見「痛い」「恥ずかしい」台詞を、己を信じる力をメーター振り切るまで放出することで超克し、そのエネルギーによって「感動」に変えていた。
     この衝撃をもう一度と今回、虚構の劇団初観劇と相成った。ハードルは高い。

     さて今作は「演劇」が社会運動と渾然一体となっていたある時期のある場面を切り取った話だ。 五木寛之の原作にどの程度忠実かは分からないが、大学の演劇サークルのメンバーが中心となるドラマなので、現代の役者にも取り組みやすいものだったかも知れない。

     しかし桜美林の鐘下組が凄すぎたためか、今回は物足りなさも残った。戯曲は鐘下氏の書き下ろし、演出は千葉哲也。今回の「虚構の旅団」企画は「演出」の外部依頼が主眼との事だから、鐘下演出だったなら・・という選択肢は無かったわけだ。しかし肉薄しつつも届かなさが見えたというのが正直な感想で、「惜しい!」。
     左翼的世界を、揶揄の対象でなく、暗面を抉り出しながらも最後は明るく肯定的に描いたドラマは珍しい部類だと思う。

     舞台の設え、客席は出入り口を見る側に横長に組まれている。床よりも面積を広く占める二つの長方形の台(高さ40cm位か)が、機能として面白かった。 床と台それぞれにフタ付きの四角い穴があって、人がそこから登場し、出はけに多用されバタンバタンと開け閉めされる。その穴に入った役者が、外への階段に抜ける扉から出てきたり、雑遊は色々出来る劇場のようだ。

    ネタバレBOX

    役者のダメ出しはネチネチやりたくないが、「惜しい」との思いが強く、少しばかり。。
     ぶっちゃければ千葉氏が助っ人俳優として呼び込んだ、映像畑の三俳優が私としては不満。 学生役と若い少女の女優ははまっていたが、人生の厚みを出してほしい三人、ヤクザ役の男性と、その女、食堂のおばさん(元活動家)がもう少しだった。・・といってもよくやってはいるのだが。。
     ヤクザ役の男性は難しい役どころ、というのは演劇サークル学生10人の「敵」として存在する一方、かつては「活動」をやっていて挫折したか転向したかでヤクザをやっている、という設定である。脚本の問題かも知れぬが、悪者を彼一人に負わせ、他は舞台上には登場しないのである。色々受け止めねばならない事情だが、どことなく若さが出てしまう。学生らを怒鳴り散らす叫びも単色で直線的、若さだ。 もっと屈折して「読ませない」雰囲気が無きゃ、脚本が持つ年齢的広がりが出てこない。
     ヤクザの女も同じく、若さが見える。彼女は主人公の青年との対比で言えば、圧倒的に世間擦れしてなければならないのだが、線が細い。炭鉱、夕張と聞いて不意を突かれたような彼に、何を感じたのか・・ 同じ匂いを感じたか、あるいは青年の望郷の眼差しを感じたか、今は母親として包んでやりたい思いがよぎるのではないか・・といった演技が「形」には見えてこない。
     そして最重要人物、食堂のおばさん。この人もかつて「活動」に青春をささげていた設定だが、確かに役年齢なりにやや年配の女優が起用されていたが、若干キャラ違い。民衆の心も知り、それゆえ「革命」など到底無理だと悟ってもいるだろう苦労人が、学生らが決死の行動に出る姿をみて、年甲斐もなく心を動かされる、そういう人物は、もっと硬柔使い分ける練達な風情をまとうのではないか・・ また重い腰を上げるのには相当なものがある、と見えなきゃ、話の腰骨が湾曲してしまう。よくやってはいるのだが、「硬」に傾いていたように思う。その結果、最後にダイナマイトを巻きつけて登場した瞬間、笑えない(その原因は一人の負わせられないと思うが)。ここは痛快に笑いたかった。。
     ありきたりな取り組みでは、この最後まで「恥ずかしい」大量の台詞の臭気を、爽快さに変えることは出来ない、それだけ難物な本であったというのが結論になるか。

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    2016/02/08 01:54

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