グッドバイ 公演情報 キューブ「グッドバイ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    喜劇という名の悲劇
     太宰治の原作は定番の「なりすまし」の喜劇であって、つまりこれを面白く見せるための手法も、自ずと定番のものにならざるを得ない。
     それでは脚本の書き甲斐がないと考えたのか、ケラリーノ・サンドロビッチは、新設定を次々に導入、状況を二転三転させるのだが、そうなるとそもそもの原作の設定自体が無意味なものになってしまい、話も笑いも後半に行くほど沈滞化してしまう。
     全体としては焦点の定まらない脚本だが、小出しのギャグには冴えたものも少なくなく、結構笑いは起きている。もっとも「笑い屋」の客が多いから、本当に可笑しいのかと言われると、実態は「そこそこ」と言ったところだろう。客はここぞと待ち構えてはいるのだが、すべってしまったギャグも少なくない。「受け」や「ツッコミ」の間の取り方が巧い役者の場合、笑いはどんどん高揚していくが、そうでもない役者との落差が激しかった。小池栄子のコメディエンヌとしてのセンスが抜群に光っている。

    ネタバレBOX

     その小池栄子の舞台映えの良さは、生で観ると一層驚嘆すら覚えてしまうほどのナイスバディに起因しているものではあるが、もちろんそれだけではない。美人の演出というのは案外難しいもので、そこに佇んでいるだけで魅力が生まれるというものでもない。完璧な美人などというものを目指すと、かえって無個性化した、生気のない人形のようなキャラクターになってしまう危険が生じる。どこかを「崩す」ことで、その美を反作用的に演出しなければならない。
     怪力、鴉声で無知無教養、ガサツで上品さのカケラもない永井キヌ子。口さえ利かなければとびきりの美人で、誰もがその正体には気がつかずに済みそうだが、何しろ根が正直だから、すぐにお里が知れそうになる。
     素で振る舞おうとするキヌ子=小池栄子と、それを見て血の気が引く田島周二=仲村トオル。このコントラストが生み出す笑いはまさしく「喜劇」のもので、太宰治の喜劇的センスのよさを感じさせる。
     「おそれいりまめ」と太宰自身もゲスでつまらないと称する駄洒落を口にする小池栄子と、それにとほほとうなだれる仲村トオル。この息の合い方が素晴らしい。ギャグは受けの良さがあってこそ笑いを生む。それを熟知した二人のやり取りが実に楽しく、これが「芸」の持つ力と言ってよいであろう。

     以降、小池栄子の爆発ぶりはいちいち書き起こすとキリがないほどに舞台を攫う勢いを見せる。
     大股開きで飯を次から次へと平らげていく大食、迫ってくる仲村トオルを気合で投げ飛ばす怪力、「曲者」を「まげもの」、「所以」を「しょい」と読んでしまう無学さを恥じることもなく、逆に開き直って「私は『日直』を『ひじき』と読んだ女よ!」と啖呵を切る小気味よさ、いずれも貪欲を体現したような大胆さで、小池栄子以外にこれを演じられる女優がいるだろうかと思えるほどのハマリっぷりである。。
     これまでの数々の映画、ドラマ出演で、彼女の演技力の確かさは世に知れ渡ってはいたけれども、正直、これほどまでに他を圧倒していては、「共演者殺し」と言われても仕方がないかもしれない。

     他の女優陣も、水野美紀、緒川たまき、夏帆、門脇麦と、錚々たる面々で、何とか彼女たちにも見せ場を作ろうと脚本は苦慮しているのだが、それがかえって舞台を沈滞化させてしまっている。
     小池栄子が出ていないシーンは、ただ台詞が流れるだけで、演劇としての躍動感が生まれていない。唯一、小池栄子に拮抗し得たのは、田島の娘の幸子や、「だいたい」占う街の女易者など、その他大勢を引き受けていた池谷のぶえだが、コメディ・リリーフとしての彼女が目立っていたということは、つまりは他のキャラクターは殆ど書割になっていて沈んでしまっていたということである。

     妻・静江(太宰の愛人の太田静子がモデルか?)役の水野美紀、本来は彼女が田島の「本命」であるはずなのだが、全体を通して、女たちの中心にいる感じがしない。田島に愛想を尽かして捨てるのは当然としても、田島に愛人を切るための策を授けた(つまりはメンタル的に田島と同好の)作家の連行(山崎一)に身を任せてしまう急転直下の転換に、説得力がないせいだろう。
     女医の大櫛先生役の緒川たまきは、クール・ビューティーな役回りで、静江から田島を「譲られる」のだが、最終的にその申し出を断ることになるのは見見当が付くが、その結論に至るまでに、静江に対して何一つ心の葛藤を覚えないというのは理解しがたい。それが氷の女の氷である所以かもしれないが、全体的に、女たちが「仲が良すぎる」ので、これでは、ドラマの生まれようもないのである。
     挿画家・水原ケイ子役の夏帆、農家の娘・草壁よし役の門脇麦に至っては、何のためにいるのか、賑やかし以外に役に立っていない。女性を描くことに定評のあったケラリーノ・サンドロビッチの舞台としては、これは失敗作と言わざるを得ないだろう。

     そもそも太宰治の未完の原作、これがたいして面白くもない。
     主人公の名前が「田島周二」であるから、これはもちろん太宰治自身(本名・津島修治)を模している。
     自身を戯画化するのは小説家にはよくあることではあるが、『グッド・バイ』(舞台のタイトルは『グッドバイ』でナカグロがないが、原作にはある)は特に露悪的で、一見、ユーモア小説のように仕立てているところに太宰のゲスさが現れている。
     二十数人の愛人を抱えていて、ちょっと手いっぱいになってきたから、妻子とまっとうな家族生活を送ろうと、要らない愛人たちを穏便に身を引かせようとするのは、何だか最近の岡田斗司夫騒動に共通するものがあるが、もちろん、不逞文士と言われた輩は、昔からそんなことをやっていたのである。太宰治は代表者の一人だろう。

     死の直前、彼には美知子夫人のほかに、太田静子(作家・太田治子の母)、山崎富栄という二人の愛人がいたことが確認されている(もちろん他にももっといたらしいことを太宰本人がほのめかしている)。
     『人間失格』『グッド・バイ』の担当編集者兼秘書として付き従っていたのがその山崎富栄だった。

     戦争未亡人で、美容師でもあった富栄は、『グッド・バイ』に登場する青木さん(舞台版では「保子」と名前が付けられていて、町田マリーが演じている)のモデルになっている。田島の策略であっさり捨てられる役どころだから、原稿を読んだ富栄は、自分も太宰に捨てられるのかと気を揉んだに違いない。そこをどう太宰が誤魔化したかは記録が残っていないが、ほどなく二人は玉川上水で入水して果てる。もしかしたら『グッド・バイ』は、太宰が富栄を死の伴侶にいざなう材料の一つとして書かれたのかもしれない。
     とてつもない美人を妻と称して連れ歩き、愛人たちの方から自然と身を引かせようとするなんてアイデアは、土台、成功する見込みのない机上の空論でしかない。太宰の他愛のない夢想と言ってしまえばそれまでだが、「富栄に読ませる」ことが第一の目的であるなら、小説としての完成度など二の次で良かったのだと考えられるだろう。もちろん、それで富栄が身を引くはずもなく、かえって富栄は太宰の死の旅に付き従う決意をする。太宰がそこまで計算していたかどうかは憶測でしかものを言えることではないが、充分に考えられることだろう。
     女を弄ぶことに関して、太宰は天性の才能を持っていた。「目的」を果たした太宰が、『グッド・バイ』の完結に未練を残さなかったのも当然だろう。

     そんな太宰をケラリーノ・サンドロビッチがどう料理したかというと、正直、よく分からないのである。
     ケラさんが、原作の設定を面白いと思っているのなら、未完に終わったものの結末をこうはしないだろうというオリジナルな展開が、後半は目白押しなのだ。けれども、最後にはいかにも太宰的なご都合主義的なラストが用意されているのだから、ケラさんは太宰が好きなのか嫌いなのかと首を傾げたくなってしまう。 太宰の入水をネタにしてからかってもいるから、人間としての太宰治のことは嫌っているのかもしれない。愛人問題に悩む田島を、連行が何度も「入水するなよ」と窘め、田島が「なぜ入水に拘る」と怒るのだが、客席の受けは今一つであった。太宰治が入水自殺したことも知らない客ばかりだったのかもしれないが、知っていたとしても笑えるギャグではない。

     先述したとおり、太宰が『グッド・バイ』を小説として完成させる意識がちゃんとあったかどうか分からない。今でいうメディアミックスの走りで、新東宝での映画化も決まっていたが、もちろん原作権料は受け取り済みである。脚本の小国英雄、監督の青柳信雄は、ほっぽりだされた原作に何とか結末を付けて映画を完成させた。それは実は「とんでもない美人」の高峰秀子も実はある策略を田島に仕掛けていたという落ちであったが、今回の舞台版は映画版とも違う展開を辿る。
     実は、太宰の原作は未完ではあったが、その落ちを朝日新聞の末常卓郎に語っていた。愛人たちに「グッド・バイ」した田島だったが、結局は計画が露見して、最愛の妻子に「グッド・バイ」されてしまうのである。普通に脚色するのなら、その落ちまでの紆余曲折を描くのが自然だろう。ところがケラさんは、原作を消化した直後に、連行から事の次第を聞いた妻・静江に、田島への三下り半を書かせてしまうのである。永井キヌ子の素性がバレるかどうか、そのあたりの展開を期待していた観客には、今までの設定は何のためにあったのかと呆気に取られてしまう展開である。
     しかも目的を失った田島は、他の愛人たちからも次々と別れを告げられる「逆グッドバイ」状態になる。さらには、いきなり暴漢に襲われて記憶喪失になり、米兵に逮捕されて強制労働に送られてしまうのだ。『恋空』もびっくりの記憶喪失ものへの急激な路線変更だが、これをケラさんは「スクリューボール・コメディ」だと認識しているらしい。「意表を突く展開」のつもりなのだろうが、定番の展開が、別の陳腐なアイデアに移行しただけでは、「脈絡のなさ」が目立つだけである。しかも一年後に帰還した田島は、あっさり記憶を取り戻してしまう。何のために記憶を喪失させたのか、意味が分からない。まだ三谷幸喜に書かせた方が、ちゃんと伏線も貼った喜劇に仕立ててくれたんじゃないかというほど雑然とした脚本であった。

     ラストは、妻や愛人たちはそれぞれに新しい恋人を見つけ、田島は嘘から出たマコトの永井キヌ子との新しい愛に生きる決意をしてみんな丸くハッピーエンドとなるのだが、これは映画版の落ちと全く同じで工夫がないだけでなく、結局は太宰の「好き勝手やっても最後は自分に都合の良い相手が見つかる」という身勝手な妄想を後付けで肯定したようなものである。なのに、カーテンコールでスタンディングオベーションする女性客が多いったらなくて、何に感動したんだか、これまたよく分からない。女性としては、むしろ怒るところじゃないのかと思うが、やっぱりイケメン(この場合は仲村トオルか)が出てるんなら、何をされようが、女として馬鹿にされようが、許しちゃうものなのだろうか。それとも、女として舐められているってことが分かってないのだろうか。

     田島の一周忌(暴漢の死体が田島と誤って荼毘に付されたという展開にも無理がありすぎるが)に、喪服で集まった一同が、生きていた田島とキヌ子の結婚を「たかさごや」をワーグナーの結婚行進曲に乗せて歌うのは、『エノケンの法界坊』で榎本健一が同曲を歌ったことへのオマージュだろう。けれども、あれは亡者になったエノケンが生者の二人を祝福するから、もの悲しくも可笑しくて笑えてしまうのである。単に喪服を着ている人々が婚礼の歌を歌うというだけなら、ギャップの可笑しさはそれほど生まれない。

     総じて、ケラリーノ・サンドロビッチの舞台は、純粋に喜劇を目指したものには失敗作が多い。前回の『社長吸血記』も、下手なタイトル通りの下手な喜劇であったが、今回も喜劇としてのツボを外しまくっている。ご本人は喜劇こそが自身の原点であると感じているのかもしれないが、小出しのギャグはまあまあだが、総体としてのシチュエーションコメディ、スラップスティックコメディは、どちらにもたいした才能は見いだせない。劇場で笑いが起きるのは、殆どが演者の喜劇的センス、タイミングの巧さに依拠している(あとは「笑い屋」とラポール現象のおかげ)。
     笑いにはさっさと見切りを付けて、ホラーな方向での新作を書いてほしいのだけれど、しばらくは喜劇志向が続くような気配なので、傑作に出逢えるのはもう少し後になりそうである。

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    2015/10/05 07:17

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