ふつうのひとびと 公演情報 玉田企画「ふつうのひとびと」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    物語性のある玉田企画劇
    この日のアフタートークによばれた歌人枡野氏は、「物語性があった」事が従来の玉田企画と異なると指摘し、それはそれで良いのだが、と前置きしつつ、「物語」の限界性を語っていた。玉田氏はこれまでの思い付いた場面を並べるだけでなく、全体としてまとまりのある物語を描く事を目標にして書き、その苦労があったと述べていた。
    私はその「物語性」のお陰で楽しめた。ただそれを(他の芝居のように)貫徹せず、抜いてる所は玉田企画ならでは(といっても前回と今回2度しか見てないが‥)と感じた。
    自分の願望を反映した「物語」なら歓迎で、そうとも言えない場合に「物語」への危惧を感じる、という事ではないのか。と、仮説してみた。完成度の高い人情劇は、その架空の設定の中ではリアルであり、現実には見られない事かもしれないが、「あり得る」現実という意味では希望は持てる、的な意味合いで歓迎されるし、演劇は「あった」事として観客の胸にそれを刻むだけの力がある。人間、捨てたものではない、など。この「物語」が、どれだけ現実から捨象するものを少なくとどめられるか、言い換えれば様々な人間社会の困難を含ませ得るか、によって、希望の深さ、感動の深さも違ってくる、という事もある。
    だが結局の所、「まとまった物語を作る」という作業の中に、無理を抱え込む面があり、その弊害を枡野氏は強く感じる人なのかもしれない。「嘘」が混じること。
    私は、ドラマの完成度について懐疑的な人間だが、感動を求める自分は確実にある。感動が心に何かを刻むのであって、一見何でもない場面でも、その人の中に関連づける何かがあれば、記憶に残る。「物語性」の少ない方が深読みや主観的な解釈が「可能」なのは確かでも、ある場面や台詞単独では心に残りづらい。それは「感動」(感慨とか感興とかぐっと来るとかオッと思うとか)とセットでないからだ。物語はその意味でとても有効なのだ。が、ウェルメイドな物語を指向すると現実から離れるという事も起き、その時間は楽しくても「現実」との繋がりが希薄である分だけ記憶に殆ど残らない、というのも事実であるように思われる。完成度というのは眉唾なのである。引っかかりの無い演劇を演劇と認めて良いのか私は疑問である。
    一般論で終わりそうだが・・枡野氏の指摘の通り、この芝居はキャラクターを的確に演じた俳優の優れた働きで、お話の世界がしっかり構築されていた。

    ネタバレBOX

    内容に少しだけ踏み込めば、「物語性」はダラダラと過ごしている主人公(たけし)が以前店を出す夢を追って、岩崎という男と上京したのだが、今は実家に帰って来ており、今日が命日で墓参り云々と言ってる会話の「死者」が実はその岩崎という男だと中盤で判る。これで物語性がぐっと増すが、なぜ、どういう風に死んだのかは明かされない。ただそうまでして何をしに東京へ行ったのか、という問いが喉にささった骨のように彼を「前へ出る」行動を控えさせている、という様相が見えてくる。このたけしのぐずぐず具合を俳優は好演していたが、彼を突き上げる役回りである彼女(咲子)はと言えば、彼の頼りなさゆえか、彼の兄と不倫関係にある(これはどちらかと言えば兄の経営能力はあるが異性へのぐずぐずさを強調する逸話のようだが)。たけしとの関係を精算したいのか、期待しているのか、で言えば後者と見える言動がみられるのに(それがためにぐずぐずの彼が我慢ならないはずであるのに)、終盤ではそういう彼も許してしまって仲良しに見える。実はこれはもう男に期待しなくなった兆しともとれるが、「物語」はそこを深追いせず、スルーしてしまってる感じがある。
    この事で、先の議論を続けるとすれば、、彼女の本心が見える言動を付け加える事で、事前の行為の意味が判り、観客には強く印象づけられるに違いない。だがそれをしないため、色んな解釈の余地を残すことにはなる一方で、殆どの場合は気づかずにスルーされることと思う。
    このことからしても、「物語性」の追求は、作者の人間観、社会観を伝える有効な手段である、が、これを追求するのは難易度が高く、リアルが犠牲になる事もあり得てしまう。どちらが優れているとも言いがたい。
    俳優は好演したが「物語性あり劇」としてはもう一歩という所で☆三つ。

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    2015/04/26 11:28

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