満足度★★★
盛り込み過ぎ/約95分
ENBUゼミ生の発表公演という性格を考えるなら、むしろコンテンツ数を減らして内容をスリム化し、コンテンツ一つ一つを丁寧に演じさせる事に注力したほうが良かったのではないだろうか?
コンテンツ数が多いせいで一つあたりの稽古時間が短くなったのか、結果としてグダグダ感、ダラダラ感の目立つ公演となってしまった。
一部のダンスシーンはとりわけひどく、雑な踊りに目も当てられず。
いくら稽古してもダメならば、もっと容易なダンスに変えるなり、シーンを丸ごと削るなりしたほうが良かったと思う。
とは言いながら、7人のキャストが赤ちゃんに、老人に、死者に、さらには人間以外の色んな生き物に「変身」して繰り広げるアクトの数々は楽しく、笑うことたびたび。
かっちりしたストーリーがなく、何でも入れ込めるという本作の特性を生かし、快快によるオリジナル版にはなかった落語のシーンさえあって、まるでバラエティショーのごとき愉快な公演を堪能した。
演じ手の下村萌さんが自作したという落語は、変身というテーマを織り込みながら巧みにこしらえられている上、下村さんは落研出身でもあるのか、江戸弁も板についていて、面白くて歯切れのいい語りを満喫。
下村さんは動きにもキレがあって、さらに華もあり、将来を期待させる。
しかし、快快版、ENBU版を問わず、『へんしん(仮)』という作品はなぜこうも魅力的なのか?
それは、舞台上で起こる様々な「変身」が、作・演出の北川さんの柄の大きな世界観に支えられており、単なるコスプレやモノマネにとどまらない豊かさを感じさせるからだろう。
その壮大な世界観を手短に表現するなら、“万物のルーツは同じ”だということ。
あの世では一つだったものが、この世に送り込まれるにあたって分断され、人間、猿、ゴキブリ、蝶など様々な形を取ってはいるが、それらは根っこのところでつながっている。
そのような世界観が根底にあるために、『へんしん(仮)』の面々は自分が人間以外の何かでありえた可能性に目を開き、別の存在へと変わってみせる。それは便宜上「変身」と表現されるが、より正確に言うならば、己の中に潜勢態として眠っている猿なり蝶なりゴキブリなりを目覚めさせ、解放する行為だと言っていいだろう。
なぜ猿や蝶やゴキブリが人間に潜んでいるのかと言えば、先に述べた通り、“万物のルーツは同じ”だからであり、ヒトも猿も蝶もゴキブリも元々は一つだったからに他ならない。
かほどまでに“大きな何か”を感じさせるがゆえに、客は『へんしん(仮)』という劇にブラックホールに呑み込まれる小惑星さながらに吸い込まれてしまうのだ。
何かオカルトじみた事を書いているようだが、果たしてそうだろうか?
人が轢き殺された犬や猫、いや、それどころか、自ら叩き潰したゴキブリにさえ憐れみを感じるのは、猫やゴキブリに自分が含まれているとどこかで感じ、強い同情を覚えるからではないのだろうか??
やはり万物はもともと一つだったのである。