アジアシリーズ vol.1 韓国特集 多元(ダウォン)芸術『 1分の中の10年』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「アジアシリーズ vol.1 韓国特集 多元(ダウォン)芸術『 1分の中の10年』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    面白い!
    とても面白かった。

    踊りを通して、様々な規範や制度について感じられた。

    ソ・ヒョンソク氏といい韓国の多元芸術は凄い!

    ネタバレBOX

    見たことがないタイプの踊りだった。
    と言っても、基は韓国伝統舞踊とヨーロッパのコンテンポラリーダンスのバックグラウンドがあり、そこから絶妙に逸脱していく。イム・ジエ自身がそうであり、そこにクラシックからコンテンポラリーを続けてきたルーマニア人セルジウ・マティスと、日本で舞踏をやってきた捩子びじんの歴史とそこからの逸脱も加わる。それは基本のダンスの型とそこからの逸脱というだけではなく、人間の行動様式全般に見られる慣習的動きとそこからの逸脱という広がりも持つ。さらに、あらゆる社会制度・規範というものの網の目をも舞台上に想起させる。

    そのようなことが読みとれる記号として提示されている訳ではない。
    あくまで私が見ながら感じていたことを言葉に落とし込んだら、そのような意味になっただけなのだ。

    すると、上演後のトークで、イム・ジエはまさにそのような意図だったと言っていた。非言語の表現でも、ここまで明確にその問いが伝達されるのだなということに驚いた。やはり核心のある表現は違う。

    ある制度からの解放を考える際に、野放図な自由ではなく、ある型・ある規範が示されることで、そこからの逸脱が明確に見えてくるということがある。まさにここでイム・ジエが行ったパフォーマンスはそういうものだ。

    彼女の解説を付け加えるなら、身体とは歴史の集積であり、自分が培った技術は「1分の中に10年」が蓄積されているものであるということ。それは、ダンスの技術だけではなく、文化を含み、様々な行動・所作にも表れる。
    そこから逸脱する動きを示すだけで、様々な制度について考えさせられるなんて。

    だがその逸脱も、見続ける中で、またひとつの型として見えてきてしまう。脱構築もすぐに制度に回収されてしまうということだろう。その様さえも感じられたので、更に驚いた。

    また、これは書こうか迷ったことだが、誤解を恐れずに書く。
    一般的にダンサーはガリガリの者が多く、体の線が細い場合が多いが、イム・ジエは痩せてはいるがお尻が大きいのだ。
    これによって、妙に生々しいの現実感が舞台に漂った。
    私が男性だからかもしれないが、官能的だとさえ思った。
    もちろん、強烈にということではない、ほんの少しのニュアンスとしてだ。だが、その小さなニュアンスが決定的に舞台の印象を変えていると思った。勿論、良い意味で。
    官能的であるかどうかは別としても、それによってある現実感が漂っていたのは確かであるし、「身体」というものの在り方を問われていると感じた。「ダンサーは痩せているもの」という固定概念についてや、ダンサー以外も含めた人間の身体の規範とは何かということまで。
    そこまで明確に意味として理解していたというより、そんなようなことを感じながら観ていて、後々、言葉にしたらそういうことだったような気がするというだけなのだが。

    いずれにしても、素晴らしい舞台だった。

    <追記>
    上記の感想は、今作の3部構成の1~2部についての感想で、休憩を挟んでの3部の感想ではない。
    上演後のトークでのイム・ジエ氏の説明によると、1~2部は「教育を受けてきたものからの逸脱」3部は「これまで持っていたものを振り返る」というような意図があったようだ。正直に言えば、3部も面白い部分はあったが、1~2部ほどには惹きつけられなかった。なぜかをうまく言葉にできない。

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    2014/11/13 22:14

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