満足度★★★★★
ドラマ構造が,ドラマとして立ち上がるためには,演出がある。
演劇研究では,たしかにイプセンとか,チェーホフの戯曲から,始める方がわかり易い。『人形の家』も,『かもめ』も,歴史的に残った有名な戯曲が存在するからだ。この考えでやっていると,どうしても,文学表現=ドラマになる。
ドラマというのは,太陽の最後に一片が,水平線のかなたに消えていくのを見るようなときに,ドラマチックというような使い方をする。感動を表現するときに使う。ドラマは,上演されたもの,パフォーマンスの一形態である。
アリストテレス的にいうと,ドラマは,ある状況になるきっかけがあって,その状況が展開し,終わりが来る。この中に,お話を関連づける筋としての,プロットが機能する。戯曲にならない,テクストはまだ完成されていない。
ドラマ構造が,ドラマとして立ち上がるためには,演出がある。これを,場面の中に置く,というフランスで,ミザンセーヌということばを使うことがある。
(Mise en scene,mettreは置くの動詞)。
『ゴドーを待ちながら』という作品では,ドラマとして変化していく感じが欠落している。アクションへの期待は残っている。反ドラマ的な作品は,現代人の人生に対する感じ方を象徴するような問題提起となっている。
始まって,終わるとは,何?「状況」という観点から,アリストテレス的説明では,始めとは,何かがそれに続いていくこと。逆に,終わりとは,そのあとに,もはや何も続かないことである。
『葉っぱのフレディ』では,春になって,「フレディ」は生まれる。そこから,物語は始まる。しかし,さしたるドラマチックな展開,プロットはまったくない。で,時が来て,秋から冬になって,枯葉となって消滅して,終わる。
場面をひとつひとつ,そこに置いて考えてみると,何かがわかる。確かに,『葉っぱのフレディ』は,戯曲になっていない,テクストによるパフォーマンス的な作品にちがいない。そこに,ドラマはないが,でも,なぜかドラマチック。
2014/09/18 04:05
生死とは,たいてい何であろうか。生死は,自然界での変化に過ぎない。とくに,これを生死といって騒ぐのは,動物の中でも人間くらいのものだ。犬や猫は,確かにそのようなことはない。
人間以外の,生きているものにも変遷はある。推移,転化はある。しかし,生死とは呼べるようなものがあるようで,ない。このことは,相対的なものではなく,宗教的な問題を考えるとき,重要なのだ。
生死とは,人間がある意識の状態を,一つの立場として,名前を与えたものといえる。それゆえに,生死のうらには,人間の意識がおおきな存在として動いている。生死そのものは,元来,客観的にはないのかもしれない。
浄土宗も,浄土真宗も,ともに浄土系である。阿弥陀の本願をどこまでも,信ずるにおいて,弥陀の称号を何度もとなえるのが,浄土宗だが,真宗は,信を強調する。さらに,浄土宗の他力に比べ,真宗の他力は徹底している。
真宗信者の目的は,浄土に往生することにある。一心一向に,弥陀を念ずると,死後浄土に往き生まれる。正覚を生ずるに最適な環境であるのだ。浄土の問題は,宗教の根本問題である。盲目的に従い,真理にめざめる。
在家宗,俗人宗の区別は,浄土真宗においてはない。そこには,僧侶というものがない。もともと,仏教は難解に向かいインドにおいては滅んだ。中国をへて,日本にあって,親鸞上人によってわかり易いものと昇華した。
真宗信者は,キリスト教のような意味の,祈りは認めない。純粋に他力だから,この世のあらゆる出来事を甘受すべきなのだ。極楽と,娑婆(しゃば)の問題は,宗教生活の根底である。穢土(えど),と浄土といってよい。
極楽は,霊性(れいせい)の世界,娑婆は感覚と知性の世界である。娑婆から,浄土が見え,浄土から,娑婆が見える。時間的には,隔てはない。自己同一にして,同一ならざるものを,一如という。それが,「自然」となる。