満足度★★★★★
葉っばのフレディ、ひのはら先生出現
葉っばのフレディは、ニューヨークでもや ったんだよ。9000万円集めるのに、苦労し た。われわれのミュージカルを見て欲しか ったから。
一時間四十分が、終わってスタンディング ・オベイションがあったんだ。みんな、感 動してくれました。いのちの美しさ。
ぼくはね。もうすぐ103歳になるんだ。80 歳の宝田あきら君なんか、まだ若い。いの ちなんてね、フレディのように潔いものさ 。
いのちの尊さを表現したミュージカルは、 葉っばのフレディが光っている。だって、 ぼくたちが一番のお手本だからさ。
PS
鈴木大拙の『真宗観』。から・・・
真宗には,『教行信証』がある。教+行+信+証,はそれぞれに意味がある。教は,教えること。行は,行いである。信は,信仰。で,それらが,証拠だてられる。
親鸞は,お経をたくさん引用して,経典的に根拠をしめす。大行は,大きな行であり,「南無阿弥陀仏」を唱える。ここで大事なのは,自分が弥陀を信仰するのではない。弥陀という他力が,この自分を通して,弥陀に向かわせる。
信ずるというものは,直接に感覚の上で体験したものを信ずるのではない。明ざるもの,聞かざるものを信ずる。教えの内容を信じ,同時に,その内容を掲げる人格を信ずるという二重の状態が起こる。
信仰というものは,見たこともない,聞いたこともないものを信ずるわけでもなくて,信そのものは,自分が持っていながら気が付かなかったものに,気が付くというようなものではある。
言葉,そのものは大事ではある。しかしながら,言葉をどこまでもその通りに考えるのは間違いになることがある。言葉だけを研究するのでは,だめである。なぜなら,これは,言葉が生まれる前の「記憶」の問題だからだ。
信ずるということは,人の持っているものと,自分の持っているものと,共通性があるべきであろう。娑婆では,見るものと,見られるもの,知るものと,知られるもの,がある。それに対し,極楽では,行為だけなので,善も悪もない。
行為の世界には,「嘘」がない。動物には,ウソはない。植物にも,太陽にも,山・川・水にも,ウソはない。行為だけの世界では,嘘がはいる余地がないのだ。人間に信が出て,行為だけの世界を去って,退屈な場所を人間は去る。
かくして,行の世界となる。弥陀の願いのままに,ついてゆくだけだ。動物の本能生活は,受動的だが,行の世界は,受動的であり,同時に,能動的である。分別して,同時に,分別しない。人間生活ができる。人生の生き甲斐がそこにある。
われわれは,何のために,生きるのかという必要はない。意味を「外」に求めてはいけない。生きていることが,そのことが意味である。お前は,何のために生きているのか?生きているから,生きている,それで良いのだ。