満足度★★★★
人間の一生は,どこから来てどこに消えるのか?
彩の国さいたま芸術劇場で,『海辺のカフカ』を観た。当日,新宿からは,埼京線で快速に乗った。与那本町で,なんと休憩20分は別に,3時間45分の大作を観劇し,高田馬場に戻って,西武新宿線で下落合に向かい,そこで,ばりばりの演劇『エンコード』を観た。結構長い時間を演劇で消費したが,おもしろい場面が多くて時間を忘れた。
村上春樹『海辺のカフカ』は,文庫本で,カラス少年との冒頭会話を読んだあとに,観劇に突入した。すぐに,タフな15歳にならなければならない,というセリフが出て来た。ホリプロ作品で,演出は蜷川氏のものだから,かなり魅力的なシーンが続く。少しして,戦争中に独ガスかなんかの後遺症で障害者になったナカタが猫としゃべり出していた。
カフカというのは,プルーストが,記憶とか時,そういうもので有名になり,ジョイスが文学形式を超えた作品を残したのに比較して,一番何を書いているか,よくわからない『審判』『城』『アメリカ』などを書いたドイツの作家だ。この三作に共通する特徴は,人間の一生は,どこから来てどこに消えるのか,そういうことを暗示している。
カフカ少年は,何を思い,どこに向かおうとしているのだろうか。だれにでもある少年時代は,カフカ少年には不遇だった。不思議な一致だが,続けて観た『エンコード』も,少年の日に,心の傷を追った若者たちの作品だった。カフカ少年のもう一つの影は,なにかの理由で,60歳で孤独に生きるナカタサトルだったのかもしれない。
非常におもしろい,興味深い,演劇のはしごだった。ちなみに,『海辺のカフカ』は,大ホールで,後方の補助席だったが,全体をしっかりと観察でき,出演者の表情もわかったから,問題はなかった。もう一つの『エンコード』は,子供時代は,実際の子どもが演じているという趣向で,一番前で小劇場を堪能できた。楽しい一日だった。
2014/06/12 21:38
翻訳とは何であろうか?日本語と,英語という,隔たりのある言語系統では,ほんとうのところ意味をスムーズにおきかえることは難しい。『英語圏の言語と文化』井口篤は,『ノルウェーの森』の文章は,会話の舞台がアメリカであってもおかしくない,登場人物はアメリカ人が,アメリカでおしゃべりしているがごとき雰囲気がある,と指摘する。
このことは,どういう理由から来ているのだろうか。単なる印象であるわけではない。村上の文体そのものは,根底にアメリカ性が内在していて,彼自身は,多くのアメリカ作家の小説を読んでは翻訳して来た結果獲得された特徴なのではないか,という。彼の文体は,いきおい半アメリカ人の小説であり,西洋人に親和性がある世界となり,人気がある。
自分のことを理解してもらうことは,さほど重要だとは思わない。もちろん,理解されるならば,その方がいいだろう。しかし,現実には,どうにもならないことは多い。しかるべき時期が来れば,おのずと,答えは出るものなのだ。永沢,渡辺は,そういう諦観がある。無理に願うのは,恋をしているようなものだ。ハツミには,まったくわからない話。
今回,『海辺のカフカ』は,蜷川幸雄脚本・フランク・ギャラティ演出で観劇した。その前後に,村上春樹の原作を比較的じっくりと読んでいく。演劇は,原作にかなり忠実に行われていた。『海辺のカフカ』そのものは,文学・演劇に精通したひとに受けるような趣向がいたるところにある難解な作品にちがいない。でも,演劇は痛快であった。
『海辺のカフカ』という作品は,実に魅力的で不思議な作品だった。しばらくこの作品の構造などについて考えみたい気がする。いつの日か,ほかの作品にも手を出すかもしれない。しかし,おそらく彼の作品中で,一番わかり易く,親近感がわくのは,『海辺のカフカ』となると直観する。本作品は,原作において,たいへんおしゃれで,深遠である。