キャベティーナ 公演情報 劇団鋼鉄村松「キャベティーナ」の観てきた!クチコミとコメント

  • なんとも・・・
    印象は、「盛り込みすぎ!」。まさくにの物語(にキャロラインが絡む)だけでも相当たっぷりな感じなのではないでしょうか。

    ところが実際には、(1)まさくにの自分探し(親離れ)の物語、(2)キャロラインの子供時代・自分探し・アイデンティティ確立・初恋の物語、(3)ガンバさんをメインとする数人の準主役の各物語、(4)キャベティーナ自体の説明、(5)現在の状況の説明、といった感じで、ありとあらゆることが同時に語られるので、説明台詞を聞かされ続ける方は意外とつらいのです。結局主役は誰だったんですかこの舞台?

    一緒に行った友人いわく、「舞台の間中、舞台一面にキャベツとか新聞紙が転がったまんまで小汚かったのが、すべてをあらわしていたよね」と。…確かに、一見したところではキャベツ畑なのか部屋のなかなのか、場面が意味不明状態でありました。

    気になったのが、ガンバさんはキャロライン父の恋人で、年中所沢に行っていた。当然キャベティーナのこともよく知っていたはず(恋人の娘が「主役」の祭りなのだから)。祭りのルールを「知らない」設定はむしろ不自然で、知っていたとすると、祭りで最後まで頑張り続けたのは、恋人の娘のキスをゲットするため?・・・随分と倒錯的というか、彼氏に対する嫌がらせなのでしょうか?
    一番よく分からなかったのは、キャロラインの「不思議な力」が何のための伏線だったのかと、キャベツの妖精にあそこまで執着していた理由(「可愛い存在でいるため」?)。一番太いストーリーラインが未消化のままなので、もやもやもやもやもや・・。劇中劇(?)で「端役を演じることに対する哲学等」が声高に語られていたところも、何だかとって付けたようで。「アドリブなんて上手く行きっこないんだよ!!」と怒鳴られたときは、劇の内容よりか「・・・何かあったの?」と心配になって来ました。

    「2222」はが非常によかっただけに、残念です。

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    2014/06/03 21:40

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  • ご本人からわざわざ説明いただけるとは、恐縮です(-。-;

    演劇は嘘であって、それを楽しむもの、というのは分かります。
    「嘘だからおかしいやん!」というつもりは全くありません。
    ただ、コテコテのファンタジー(嘘)に説得性を持たせるのは
    「これウソだからなんでもアリ感」ではなくて、むしろストイックなほどに
    厳しく設定されたルールなのだろうな、とは思います(あくまでも私の考えなのですけれど)。

    もし、祭りの狂乱に飲み込まれて~という内容なのであれば、
    もっと「キャベティーナという祭り自体」にフォーカスさせたほうが
    求心力が産まれたかもしれないですね、というのが個人的な感想です。

    キャロラインの「巫女」という位置づけがこちらに伝われば、違ったのかもしれませんが・・・。
    (単なるゆるキャラ?にしか見えなかったので・・・)
    キャベティーナとキャロラインが、バッカスの祭りとその巫女のようなものだ、というのであれば、
    巫女が特殊な力を持つ、という伏線は分からなくもないです(面白いかは別にして)。
    (・・・と言うか本来的に話の筋が分かる必要ない、ということなのですよね。)

    とはいえ、トランスに至るような祭りの狂乱状態が表現されていたかどうかは、さらに別の話で・・・
    (説明のセリフのほうが印象強かったし、キャロラインも“逝っちゃって”はいなかったですし)。

    キャロライン父に関して言えば、この劇の中で一番(ほぼ唯一)感情移入できるキャラでした。
    役者さんも良かったです(『赤毛のアン』ネタ?はすべってましたけれど)。
    少なくとも、私は楽しみ切れなかった理由は、下ネタがよくないとかでは全然なかったです。

    何か文句ばっかり付けてるみたいですいませんでした<(_ _)>。

    2014/06/05 21:49

    まず、私がこれを言って、だから、この芝居はおもしろいんですよ、というつもりはない、ということをご了承ください。

    俺は、こんな気持ちで作ったんだけれど、すいませんでしたー、という感じです。

    芝居は、嘘です。

    で、綺麗に整った嘘をつこうとこの芝居は書かれていません。

    この嘘は、こんなの見たことない、と言われたがっている嘘です。

    ただ、なんか腑には落ちた、

    この最低ラインはキープしたいと思っている。

    役者は、与えられた役演じると同時に、演じる本人(それで食えるわけでもない演劇をだらだらやってる人)を背負っています。

    その人の生き様、佇まい、役者として得意な音、苦手な動き、全部ひっくるめて、

    そこに立ちます。

    劇団員のシーンは、それがもっとも顕在化したものです。

    話の構造としては、外から、キャベツ投げを見て、

    外から視線の解説・批評が任されているシーンでもあります。

    説明台詞が多いという、ご批判。たしかに説明台詞多いです。

    ただ、俺は、この説明台詞、一つ一つが、面白くて、気が利いてるなあと思っている。

    「大橋新田が、参加が後発だから、移動舞台で客集めをした」

    「各町が、それを真似て今ではデフォルトになっている」

    「狭い道にそれが入ってくるから、あぶなくてしょうがない」

    なんと、もっともらしく、バカバカしく、人の、お祭りの営為をしみじみと表していることだろう。

    アドリブは難しい、の台詞に関しては、エッセイです。

    俺、こんな失敗したんだよー、でうまいこといかないことをネタに笑っていただこう、の

    心持です。

    この芝居は、綺麗に整った嘘をつこうとは、描かれていませんが、

    自分なりの美意識はものすごく、張り巡らされていて、

    話の矛盾は、おおむね、それオカシイやーん、の突っ込み待ちの矛盾で、

    実は、笑ってほしいところだっりします。

    ガンバさんと藤田ともおが、つきあっている、というのを例にとると、

    まず、キャロラインの気持ちを自分から逸らすための、装置として

    「俺はゲイだ」、という言葉が舞台上に生まれ、

    それは、最初、嘘かホントかわからない。

    しかし、コーセーがその嘘を引き継いで、

    話がもっともらしく、自分の過去として語られ、

    話を始めた自分が、「にわかに自分のこととは、信じがたい」という事態に陥る。

    それを受けての、

    グッチーの、「キャベティーナは、立ち止まらない、祭りだ、祭りだ」の台詞。

    矛盾とかどうでもいい、ただひたすら、GO!

    狂え。お祭りなんだから。

    「もっともっと。

    もっと激しく、もっと死んじゃうみたいに」

    お祭りの巫女として、藤田キャロラインが、熱狂をあおる。

    トコロザーワ市民は1年を、お祭りの一日とそれを待つ364日に変えて生きるのだ。

    祭りは狂乱の度を増して、工場長は病院送り、

    チンポがでか過ぎたという最悪のシモネタまで生みだし、

    まさかの、相撲で決着をつける、というB級の極みにまで達する。

    そこで突然、ヤクザボタンという、わけのわからんものが出て、

    ヤクザボタンを押すと、ヤクザが出てきて、ガンバさんを刺す。

    工場長が、「間に合ったか俺のヤクザボタン」と言う。

    説明はなし。

    いいんだよ、お祭りだから。立ち止まらない。行っちゃえ行っちゃえ!!

    そんな芝居なのでした。

    散らかったのは散らかったのが、面白いと感じる感性が作った芝居なのでした。

    2014/06/04 15:04

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