2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」 公演情報 彩の国さいたま芸術劇場「2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    蜷川さんは、役者の身体が発する声に、きちん耳を傾けて演出すべきだったのではないのか
    と勝手に思ってしまった。

    蜷川幸雄+さいたまネクストシアターの『カリギュラ』。

    カリギュラは、ローマの皇帝、そして独裁者である。
    しかし、その前に若者だ。

    とても面白かった!

    ネタバレBOX

    非常にシンプルな舞台装置。
    最初はイスがあるだけ。舞台の正面は例のごとく鏡になっており、そこから役者が登場したりする。
    観客席の正面と舞台の間には「鏡」がある設定のようだ(実際には何もない)。

    カリギュラ役の内田健司さんが登場し、最初に台詞を発したとき、それまで貴族役の俳優たちが大きく演技をしていたのとはまったく違い、あまりにも「普通」にしゃべったのが凄すぎて、震えた。
    このカリギュラはいいぞ! と瞬時に思った。

    いきなりラストの話をするが、貴族たちに襲われて絶命する直前にカリギュラが、「カリギュラはまだ生きている」と言う(正確に覚えているわけではないが、そんなことを言う)。
    それで終わりなのだと思っていたら、その台詞の雰囲気がラストっぽくないので、「?」と思った。

    すると血まみれで横たわるカリギュラがすくっと立ち、「カリギュラは死んではいない。……カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる……」みたいなことを長台詞で言う。

    その台詞は、なんか“ダサイ”なと思った。
    つまり、その台詞はてっきり蜷川幸雄さんが、あとから付け足したものではないかと思ったわけだ。

    蜷川幸雄さんは丁寧に演劇の内容を説明したがる人ではないかと思う。
    例えば、高齢者が演じるゴールド・シアター『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』では、ラストにわざわざ若い役者たちを用意し、それまで演じていた老人たちを一瞬で若者に変えて、馬鹿丁寧と言いたくなるぐらいに説明してくれた。
    また、ネクストシアター『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹に歌わせ、ハムレットとオフィーリアの心情にぶつけて見せてくれた。

    それぐらい説明して、観客にわからせたいと思っているのだ。
    観客は馬鹿だと思っているに違いない。……というのは冗談として。

    だから、このラストに追加された台詞は、ラストだと思っていた「カリギュラはまだ生きている」を、さらに誰にでもわかりやすくするために追加したものではないかと思ったわけだ。

    しかし、帰宅後調べたら、その台詞は、今の戯曲からは外されているものの、作者であるカミュの構想にはあったものだということがわかった。
    確かに、この台詞はわかりやすい。
    しかし、説明的すぎてダサイ。

    ダサくても入れたいと思うのが、蜷川幸雄さんだと思う。外連味と言ってもいい。
    もし、そうした構想の台詞がなかったとしたら、絶対に別の何かを仕掛けてきたのではないかと思う。

    カミュによる戯曲『カリギュラ』は、第2次世界大戦前とは言え、ヒトラーの存在抜きでは考えられない。

    つまり、独裁者の心にあるものは、実は誰の心にもあるものだ(独裁者はいつの世にも出てくるものだ)、と言いたかったのだろう(と勝手に思った)。「カリギュラは死んではいない」「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」と。

    この台詞は、(私が勝手に解釈した意味において)ブレヒトの「諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している」を思い出させる。

    カミュの戯曲は、何かきな臭いことが起きそうな予感する時代の中で書かれたものであり、さらに戦中に手を入れられたらしい。

    蜷川さんは、だからこそこの戯曲を今の日本と重ねてみたのだろう。
    そして、何かきな臭い感じがする「今」に重ね、ブレヒトの言葉のような解釈を加えたと言っていいのではないだろか。

    たぶんそこがポイントであり、ラストの台詞の選択となったというのが、最初の(勝手な)解釈だ。
    しかし、実はそうではなく、若い役者さんたちが演じるさいたまネクストシアターの演目にこの作品を選択したというところに、本当の解釈があるのではないだろうか。
    というよりは、この作品に『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』には、私は別のものを観ていた。

    それは、「若さ故の、何かわからない焦燥感」とでも言うか、「名前の付けられない何か」がそこにある、ということだ。

    何もかもをメチャメチャにしたいという欲求がある若者に、すべての権力を与えて、何かのきっかけで実際にそれを行使したら、こうなった、というような世界がそこにあったのではないか。

    つまり、「悪いこと」と十分にわかっていても、何かも破壊し、汚し、痛めつけたいという欲望がある。
    「愛するが故に」そうしたいという欲望だ。
    それを一見、理論的な理由(もちろん、無茶苦茶なのだが)でコーティングして行ってしまう。
    そして、自らの他者への破壊行為は、痛みとして自らにも及び、自己嫌悪に陥る。さらにその欲求はエスカレートしていく。
    そんなダウナーなサイクルを、若いときに体験した(あるいは妄想した)ことがある人はいるのではないだろうか。もちろん、人殺しや法を犯すことなく。

    カリギュラはそれをやった。しかも、彼が法であり、「世界で唯一自由な人」だった。

    彼の周囲には、彼をさまざまな「愛」で「理解する人々」がいて、理解できない老人たちがいる(衣装でわかりやすく分けて見せる丁寧さが蜷川流)。

    「根は優しい悪い仲間」とでもいうべきカリギュラを取り巻く者たち、さらに「カリギュラのことは理解(共感)できるが、彼の側には立たない」という「仲間」もいる。そして彼らに対峙するのは、彼らを頭から理解しない「大人たち」だ。

    もう、その2軸の構図はどこにでもある。「金八先生」にだってある。
    だから「カリギュラは死んでいない」のだ。
    だからカリギュラの苦悩は観る者に訴えてくるのだ。
    だから「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」のだ。

    ネクストシアターの役者さんたちが、その身体で、カミュの戯曲の神髄を教えてくれた。
    蜷川幸雄さんの演出ではないと思う。

    最初の解釈は外側にある出来事であり、あとの解釈が本当の「カリギュラ」の姿ではないのか。
    蜷川幸雄さんは、最初の解釈を見せたのか、あとの解釈を見せたのかはわからない。
    しかし、ラストは、蜷川幸雄演出ではありがちな、カリギュラが舞台の向こう側に去って行く、で終わる。歴史の中に戻るように。
    「わかりやすく見せくれる」蜷川演出からすれば、これは最初の解釈なのだろう。独裁者についての解釈。

    そう考えると、「独裁者」という「名前」に惑わされたので、余計な台詞を付けてしまった「理解(しない)できない大人(たち)」の代表が、実は蜷川幸雄さんだったのかもしれない。
    「わかっていない大人」が付けたラストはこうなる。

    本当のラストは「カリギュラは去らない」のではないだろうか。

    蜷川幸雄さんはの解釈が最初のほうだとすれば(たぶんそうだと思う)、きちんとネクストシアターの役者さんたちの身体から発する声にも耳を傾けてながら演出すべきではなかったのか、と思ってしまう。
    そうすれば、「今」の「カリギュラ」が出来上がったのではないかと思う。

    ……蜷川さんの解釈はどっちかはわからないので、以上は私の勝手な「解釈」である。

    0

    2014/02/18 06:09

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大