作品№8 公演情報 OM-2「作品№8」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    個人的体験としては、、、
    全体としてはよくわからなかった。
    ただ、部分的、個人的にはとても面白い部分があった。

    ネタバレBOX

    シェークスピアの『オイディプス王』を基に、現代社会の問題と重ねて書かれた作品。(ハイナー・ミュラーの影響も大きいのだろう。)

    すべてが言葉に充たされている舞台だと思った。
    役者の発する言葉は勿論、身体表現に関しても言葉に変換されることを望んでいるように感じた。まさに記号として。

    だが、作品の中で、「意味や記号に回収されないものこそ、個の身体の中にある」というようなことが語られていたので、作者の意図は不明だ。

    少なくとも観客の私には、すべてが記号に見えた。
    作者はそれに抗う演出を試みたつもりが私にそう見えなかっただけなのか、それともあらゆる言葉や行為は記号に回収されるということを自己批評(自己相対化)も含めて描いた作品なのだろうか。

    言葉も、難しい言葉が飛び交っている割に、その内容は一義的に感じた。
    現代社会への批判的な言辞。言葉にならない言葉を言語化しようとしているという意味では、社会に押しつぶされる者の叫びという複雑さは孕んでいるものの、その言葉の向かう先は一方向的。メッセージと言っていい内容。全てが一色だと感じた。

    それでも、前半部分では、その一方向性に中断が加えられていると感じ、そこまで悪い印象ではなかった。台詞を複数の役者が一緒に語るなど、言葉が聞き取りずらいものだった。それによって、意味内容をそのまま伝達されない演出になっていた。それが「人は他者の声に容易には接続することができない」というディスコミュニケーションのことを問題にしているようにも受け取れたのだ。

    だが、後半では役者の台詞(テキスト)は舞台後ろのスクリーンに文字として投影された。そこには、言葉を「意味」そのものとして、それもできる限り内容がズレない形で観客に伝達しようという意志が見えた。
    もしかしたら、言葉と身体(目の前で演じられるもの)とのズレを示したかったのかもしれないが、私には、言葉と演技は相互補完しているようにしか見えなかった。つまり、ズレては見えなかった。

    それでは、どこに向かって作品が作られているのか、何を批評しているのか、何を問いかけたいのかが全くわからない。
    わかるとすれば、それは最も安易なメッセージとしてでしかない。

    難しいことを色々書いたが、以上のことはすべて頭で考えたことで、
    舞台そのものから感覚が強烈に刺激されることはなかった。

    ただし、ここからは個人的な体験に絡む話なので、客観的批評にはなりえないのだが、
    劇の中盤に観客参加のような部分があり、観客の何人かが舞台上に引き込まれた。その何人かに私が入ったのだ。

    やり尽された手法とはいえ、実際に参加する側の興奮は、ただ劇を傍観している感覚とは違う。
    それでも、それだけなら、殊更ここで書く必要はない。
    問題は、そこから。
    舞台に上げられ、椅子に座らせられ、さらにその私の膝の上に、女優さんが座ったのだ。

    そこで女優さんの足と私の足が触れる接点の感触の妙な生生しさが、作品の示す観念的なものと引き裂かれているということを身体を通して感じることとなった。私が男性であり、相手が綺麗な女優さんだということも、その感覚を増幅さた要因にあると思う。
    そして、その女優さんの足の感覚は、その後の舞台を観る中でも残りつづけ、その身体の感覚と舞台上の観念的世界とのズレを考えながら舞台を観続けた。
    すると、この作品が問いかけているテーマと、この問題は重なっているように思えた。

    上滑りする言葉・情報の氾濫の中で、個の身体性の回復とは何か、など。

    ただし、これは私の極めて個人的な劇体験からくるものであり、おそらく観客参加者に選ばれていなかったら、こんな分裂は覚えなかったと思う。
    「観念だけの作品を観たな」という印象で終わっていたように思う。

    観客参加がなかったらおそらく【満足度】は「評価しない」を付けていたと思う。
    だが、すべての劇体験は個人的なものでしかないとも言えるので、そういう意味では★4。
    ここでは、間をとって★3にした。

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    2014/02/16 00:32

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