どこか傍観者を装う演技
まず、25分遅れて観劇したため、彼らの『我らがジョーク』の本質的完結に触れることができたかといえば、大いに疑問である。
この舞台は大学演劇学科の稽古場と、キャンパスからの脱獄を図る二部構成だ。多摩美大が2時間の長編作品を上演すること自体、珍しい機会であるが、今回はストリートプレイを やや試みたのだろう。
通常、年配男性に「理解できないな」とコメントされる彼らの作品は、幾何学的な台詞やダンスを多用する傾向がある。そうした過去公演と比べれば、『我らがジョーク』は演劇スタジオというリアリズムに則った空間設定、稽古中であるという話の筋はしっかりしているかもしれない。
ただし、私は彼らが「ストリートプレイ」を追求せず、「多摩美らしさ」を隠せなかったことに対し、安堵している。
25mほどの長い舞台空間に、数人の役者同士が「群」をなす。
それは、演技中だろうと、休憩中だろうと、関係ない。
“非常に自然な、現代の若者における内輪”のリアリズムを表現した「コミュニケーション」が、その片方の群れAで交わされる。当然ながら、もう一方の群Bでも交わされるわけだが、この「コミュニケーション」が互いに影響し合い、新たな展開を作り出すことはない。
つまり、演劇スタジオなる確固たる空間設定がなされておきながらも、右と左では“異なる舞台が同時並行に、全く同一の目的を持ち進む”構成である。