「忠臣蔵」と「終戦のエンペラー」〜私は形式から誤った手法だと思う
「忠臣蔵」は、半沢直樹「倍返し!」へ繋がる、日本人に親しまれてきた時代劇である。終戦後、マッカーサー率いる連合国軍総司令部(GHQ)民政局が 歌舞伎演目「忠臣蔵」の上演を禁止したのも、「残兵が主君の仇討ちを図ることを阻止」するためだったらしい。
ただ、マッカーサー氏が厚木飛行基地に降り立ち、乗用車で都内へ移動中、武装解除した日本兵は背中を向け、彼(米国)に敬意を表したという。この場面、教科書を
探しても写真は掲載されていないだろうが、本年度公開のハリウッド映画『終戦のエンペラー』には、トビーリージョーンズ氏 演じるマッカーサー司令官が車内で通訳から そのことを聴き、日本人の精神性を読み解く表情を みせている。
なぜ、GHQは、日本人が「倍返し!」しえない精神性を確認しながら、「忠臣蔵」上演禁止を47年まで続けたのだろうか。禁止には、映画等の映像作品も含まれる。
実は この話は、「こども歌舞伎」で、家柄に囚われない、一般家庭出身の子供を対象とした歌舞伎プログラムを実践されているNPO法人日本伝統芸能振興会の竹芝源一専務理事に伺った史実背景だ。彼は、歌舞伎の家柄支配(松竹支配)を造ったGHQを、力強い調子で批判する。一方、GHQが日本政府に指示し、「国民栄養調査」を行い、全国民的な「タンパク質不足」を突き止めたことが、戦後の長寿社会に良い影響を与えたのは間違いない。その点は評価したい。つまり、卵や牛乳を摂取する欧米式ライフスタイルなくして、今日の逆三角形ビラミッド(人口構造)は存在しない。
「国民栄養調査(現在の国民健康・栄養調査)の始まりは戦後の貧困状態にあった昭和20(1945)年に海外からの食糧援助を受けるための基礎資料を得る目的で連合国軍司令部(GHQ)の指令に基づく調査を実施したことに端を発している。初回の調査は昭和20年12月に東京都民6,000世帯約30,000人を対象としたものであったが、翌昭和21(1946)年からは9都市、27都道府県、4鉱山・炭坑地区および1鉄道局で実施されている。昭和23(1948)年からは全国調査となり、層別無作為抽出法により調査地区が選定された」(独立行政法人 国立健康•栄養研究所「国民栄養の現状レポート 国民栄養調査とは」より引用)
しかしながら、歌舞伎等の文化政策に目を向ければ、必ずしも 良い影響を与えたとは私も思わない。
一体、「『忠臣蔵』の どこに、アメリカが隠したかった日本人のDNAが あるのか?」ーそれを知りたく、本作を観劇した。なにせ全幕だ。アメリカは、第二次世界大戦中より、「どこに日本人の DNAが あるのか?」を、研究している。当初、ターゲットにしたのは、世界文化遺産(現在)の富士山だった。
「第二次世界大戦中、米国OSS(戦略情報部)の神経戦部では、富士山を赤いペンキで染める案が検討されていた。しかし、12万トンの赤ペンキ及び総費用600億円が必要なことが判明し、その無謀性から実施断念となった」(富士山情報サイトー「フジヤマNAVI ホームページ」より抜粋)
もし、第二次世界大戦中、富士山を染める軍事行為を実施していれば、アメリカは「人類の財産」を奪った汚名を着せられたはずだ。
この例で解るのは、アメリカは、「日本人のDNA」=「精神性」を 単純化し、「どこにあるのか?」を追い求め、そして出した答えが「忠臣蔵」だった経緯である。
「歌舞伎」は大衆の手のなかに。それは、原田芳雄氏の遺作『大鹿村騒動記』(東映 2011)を鑑賞すれば、誰でも気付く。銀座•東映本社で 試写を鑑賞した私が得たのは、地域独自の「浄瑠璃 歌舞伎」の魅力である。GHQは2年間かけ、数千あった歌舞伎団体(主に地域の文化組織)を ほぼ壊滅させた。プロ野球や
大相撲が戦争終結に伴い再興したなか、歌舞伎だけは政治的に切り捨てられた。裏を返せば、歌舞伎という全国津々浦々まで拡がる「情報伝達力」のもと、「仇討ち文化の忠臣蔵」が、ある種「農民一揆」を引き起こす事態を避けたかったのかもしれない。それは まるで、富士山という、遠く離れた農民すら拝める「情報伝達力」に共通した精神文化である。
先ほど紹介した、NPO法人 日本伝統芸能振興会の竹芝源一 専務理事は、入会の挨拶文で、次のように述べておられる。
「〜歌舞伎は特定の人の所有物?
そこで我々は、もう一度歌舞伎の原点に立ち戻り、考えました。
歌舞伎は日本の財産であり、私たちの誇りであり、宝であるべきです。
特定の人の所有物ではなく、私共全ての日本人の所有物であらねばならないと、我々はこのことを正しく伝えなければなりません。
間違ったものにいつまでも目をつぶってはいけません。」
本作はリーディング公演である。
浄瑠璃は「語り」と「台詞」が構成要素だが、映像技法のアップ、ローのアングルを狙った演出のため、本作では「台詞」の役者が「語り」を交えた。これが混乱させた。
時代劇のリーディングは、少人数の方がいい。
役者は渾身である。しかし、「半分も解らない」声が続々だ。
演出の責任を感じる。