カンロ 【ご来場いただきまして、誠にありがとうございました!】 公演情報 鳥公園「カンロ 【ご来場いただきまして、誠にありがとうございました!】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    甘露
    たまたまアフタートークがある回を観た。

    ネタバレBOX

    登場人物
    益子、井尾、笠原は年が33前後の中高一貫校のかつての同級生。
    益子はデパ地下で働いていて最近結婚した。
    井尾は美術モデルで実態はニート。
    笠原は地味な高校教師で男性経験がない。
    大熊と佐竹は同じ職場で働く先輩と後輩。
    大熊は工場で働くフリーター。井尾の友人。
    佐竹はお笑い芸人志望のフリーター。
    菱沼は大熊と佐竹の上司の管理職で笠原の父。
    櫟は笠原の同僚の高校教師で益子の夫。

    益子と井尾は最近同窓会で再会した。二人で会ってお互いの近況を話している。同窓会に来た地味な同級生・笠原の話をする。
    笠原は高校教師で恋愛経験がなかったが、初めて男性(櫟、高校の同僚)とデートをすることになって益子に服の相談をしてくる。
    櫟は益子の夫だが、笠原は櫟が既婚者であることを知らない。初めてのデートで既婚者であることを告げられて笠原は自殺する(?)。
    大熊と佐竹は多分地下の工場か何かで非正規で働いている。それはたぶん死体を処理する工場か何かのようである。そこの管理職が笠原の父親の菱沼である。
    大熊は勤務態度が悪く佐竹に仕事を押し付けているが、菱沼はそれに
    気づいている。菱沼は佐竹に正社員になることを持ちかける。
    大熊と井尾には肉体関係があるが恋人というわけではない。
    大熊は仕事をやめるが尿と下痢が止まらなくなりトイレットペーパーをひきづって死ぬ。
    笠原と大熊の死体は工場で処理される。
    しかし笠原は再び登場して最初の場面の井尾と入れ替わる(井尾が益子と、益子が笠原と、スピーカーからの声で菱沼が佐竹と、佐竹が大熊と入れ替わっている)。

    大筋でこうしたスレッド、断片が抽象的にゆるくコラージュされていた。ゆるいというのはひとつのイベントが因果的に他のイベントを引き起こすことがないということである。同時的に複数のイベントが並存したままで演出上の仕掛けによってひとつの像に交叉するようになっている。映画のように視線が一つではできない舞台ならではの演出である。

    舞台の前面はダイニングやトイレなどの人間の生活する場のセットになっていて、舞台の後方のずっと広い空間は記憶、空想、意識下あるいは無意識、それと大熊らがいる工場のように使われている。舞台前方には穴が空いていて地下は工場である。
    後方に一度も行かないのは益子だけだが、その代わり益子は上の天井につながる梯子に登ることがあった。
    笠原と櫟の会話が後ろの壁上方の垂れ幕(あとで巨大なトイレットペーパーにもなる)に文字で出ていた。それは益子がパソコンに打ち込んでいるかのようになっていて、笠原と櫟の関係を益子の空想であるかのように宙吊りにする効果があった。
    トイレからでてきた佐竹と菱沼の会話で彼等の世界の状況や彼らの仕事が死体を処理しているらしいことが垣間見える。佐竹も下痢をしているが、それが大熊と同じ状況なのかはわからない。
    笠原と櫟がデートで観覧車に乗る場面では二人が舞台奥の上階の窓のところにでてきた。となりの窓に菱沼がいて客席を凝視していたのは、この後の場面で窓のあいだの垂れ幕を佐竹とひいていくことからすると、客席に処理すべき原料が集められていたということである。
    櫟が既婚者であることを告げたあたりで、前面の舞台の穴からテーブルと椅子がせりあがってきて、上手側のテーブルが斜めなって、テーブルのうえで寝ていた井尾がすべりおちた。
    井尾と大熊は環境の変化を気づいた様子もなく同じように過ごす。
    大熊が、一万年後に人類がいるのかどうか考えている変わった女友達がいるという話を井尾にしていた。井尾が同じことを考えていたので大熊が言っていたのは井尾のことのように思われる。
    大熊がトイレットペーパーを引きずって死んでゆくとき、菱沼と佐竹が大きな白い垂れ幕の帯を巨大なトイレットペーパーのように舞台上方奥から客席のほうにずっと敷いていった。それは観客に大熊と同じ運命をたどることを告知しているようだった。客席まで来て方向を変えて後ろの工場のライン(もっと前の場面で大熊、佐竹、菱沼が静かに設置していた)につなげられた。
    大熊がトイレットペーパーをひきずる様子を笠原がカメラで撮影していた。その意味はわからないが、大熊が死んだあたりで笠原も下手側の自宅のところで死んでいた。

    井尾が斜めになったテーブルの上で猿のような格好でいろいろ喋っていた。終始アンニュイな様子の井尾の頭の中身は支離滅裂であった。益子はそれを梯子の上方から見物していた。
    井尾は上演中の大部分の時間、上手側のテーブルにいるのだが、カップラーメンを食べるかテーブルの上で寝ているかしかしていなかった。益子は冒頭の場面で井尾をすごいすごいと言うのだが、彼女が軽蔑するルミネで服を買い漁る女たちは井尾の同類であって、井尾のことも冷たく見下している。

    益子と櫟が部屋の壁の亀裂から入ってくるアリの行列の話をしていた。アリを殺しても殺しきれずわいてくるという。櫟はパンやシチューに入ってしまったアリたちをたんぱく質だからと食べている。その話をしている彼等の視線はセットをぐるぐる周回している井尾に向けられていた。彼女の姿がアリと重ね合わされることで、舞台奥の工場のラインで処理されている死体が何になるのかが示されていた。井尾が周回しているところの一部は佐竹と菱沼が巨大なトイレットペーパーを敷いたあとにトイレのドアをはずしてテーブルにたてかけて作ったものであり、セットの一階部分は工場のラインのイメージが重ねられているのである。一方、益子と櫟はそれを上から眺められる2階部分にあがっている。
    櫟がアリ入りのパンやシチューを食べるのと井尾が添加物や容器の石油が浸み出したカップラーメンを食べることも平行していた。
    益子と櫟は内面を欠いた功利的な存在に見えた。彼らが当面生きのびる者たちである。
    井尾と益子が一万年後の未来の人類の姿はどうなるか、日本人は存在するか、といったことを話す。計算上日本人は千年後には絶滅している、未来の人類は今の自分たちから見たら奇形に見える姿かもしれない、生殖能力が衰えた個体を生む種は種として絶滅を望んでいるのではないか、いずれにしてもそれはそれでいいのではないか、といった内容。途中で弁当を食べ始めてピクニックに来ているふうになって、益子が私たち本当はこんな会話してないから、と言う。そこに笠原も合流する。
    そこから最初の場面に戻ったかのようになって人物が入れ替わっていた。それの意味は不明だが、夢落ち的な効果は殆どない。これも含めて現実か空想かを宙吊りにしておくような演出がされていたわけだが、現出してくる世界の不気味さは宙吊りにされようもなかった。

    最初は下手側の席で見て台詞が聞き取れなかったり部分的に見えなかったりしたので、もう一度上手側で見てデテイルを確認した。
    最初に観た回のアフタートークでアウシュヴィッツや311の話を聞いたら、全体を日本人が確実に絶滅(蒸発)してゆく運命であるというパースペクティブのもとで観たほうがよいと思われた。それは内臓が崩壊し、尿と下痢が止まらなくなって、トイレットペーパーをひきずって死ぬことで暗喩されるような運命である(鳥公園の以前の作品でも、月経の血や精液、尿といった身体から排出される液体のイメージが際立っていた)。絶滅にいたる過程で人の死体を工場で食料の原料にするような経過があることが示唆されている。

    舞台の前景では夫婦や友人関係がなす人間的な生の薄膜が、地下・舞台奥には非人間的なハードな深層があり、薄膜には穴が空いているが、そこから深層が侵入してくる。
    絶滅の予感のもとで人間的な生がいっそう儚い貴重なものに見えつつ絶滅の兆しもそこはかとなく現出している。この劇自体もそんな兆しのひとつになっている。

    鳥公園は乞局経由で見るようになったのだが、今回はトイレがあったりするあたりなどが乞局を思わせる。
    会場のロビーにちょうど岩波ホールで上映中の映画『ハンナ・アーレント』のチラシがあったのが偶然とは思えない。というのもアーレントは歴史上最悪の大虐殺に加担したアイヒマンにありふれた凡庸さを見いだしたのであった。この劇には類似のモチーフがある。

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    2013/10/28 21:36

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