God save the Queen 公演情報 東京芸術劇場「God save the Queen」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    それぞれの作品に見応えあり
    初日を拝見。

    ショーケース形式という説明がありましたが、一本ずつの作品にガチな見応えがあって、今旬の女性主宰劇団を紹介されたという感じよりも、上質な5本の舞台にそれぞれ別腹で満たされた印象が残りました。

    ネタバレBOX

    5劇団とも作品を観たことがあって、この企画のフライヤーを初めて見たときから、けっこうわくわくしていました。
    で、実際の作品をみると、それぞれにこれまで観たものにはないさらなる作り手の引き出しを感じることができて、従前の期待をも大きく上回った充実の作品群になっていました。

    ・うさぎストライプ『メトロ』

    開演前からタイトルと並んだ椅子が、駅のベンチや地下鉄の車内を想像させるのですが、そこに役者たちが現れると更なる密度がうまれて。一つのシーンから時間が解けていきます。
    歩くことや走ること、時に風景が紡がれ、あるいは記憶の断片が切り出され、時間が行き交う。
    音楽と身体が刻む時間、ダンスのシークエンス、そこには、今があって、今抱く記憶があって、失われたものがあって。
    椅子を並び替えて道を作っていくその表現がとても秀逸。想いの時間をとどめ、前に進め、再びとどめる。
    記憶は、時にダンスのごとく軽やかに、疾走感を持ってめぐり、あるいは突き当たるような慟哭を伴って、いくつもの温度と質感で、残されたものに、そして観客に蘇る。

    実をいうと、登場人物の死に関して、ワンラインだけ、地下鉄史上おそらく最大の事件を示唆する表現が差し挟まれた(濡れたビニール状のもの云々)と理解したのですが、そのあたりだけがちょっとあいまいに感じられました。

    でも、舞台全体を使って描かれた想いの風景には、みるものを柔らかい滅失感とともに豊かに取り込む力がありました。

    ・タカハ劇団『クイズ君、最後の2日間』

    当日パンフレットとタイトルから、描かれ るものの外枠は示されていたのだが、それでも最初は舞台に散乱したキューブ状のイメージと、差し込まれる漫才や政治用語のラリーにすこしとまどってしまう。
    しかし、程なく、ランダムに揺れ動くようなイメージが次第にフォーカスを絞られ、一人の男性の自殺までの2日間の道程とその心風景、さらにはそれをとりまくネット上を含めた風景となって観る側に広がっていきます。

    事実の淡々としたクリアさとそのあからさまさ、手にとるように感じられながら決して手が届かないような距離感の捕まえられなさや乖離感、さらにはその中間に去来する様々な社会の景色や内心のありようが、集約された時間の厚みとして織り上がっていく。

    バラバラに舞台に置かれていた箱の塊たちが、いろいろに重ねられ、組み替えられ、時に隅に押しやられてスペースが生まれ、やがて中央に集められて一つの意思のごとく形成されていくその姿が、画像の文字と役者たちの台詞に編まれていく心風景に次第に重なり、男の結末のありようとなって。

    舞台中央に形成された意思の形と、突然に訪れるラストの衝撃に息を呑みました。

    これまでに観た作り手の作風とは異なる語り口から組みあがり訪れる感覚に、目を瞠りました。

    ・鳥公園『蒸発』

    屋上のような場所から男の自慰や欲情やあまつさえ鶏を犯す姿を見る女性と、ゆったりとソファーに座り鶏もも肉を食べる女性。

    その行動や会話が次第に結びつき、やがて女性の求めるものの表裏へと編みあがっていきます。

    視覚からの直情的な高揚を伴った一面と、ゆっくりと味わい取り込むことへの感覚が、なんだろ、命を注ぎ込み食する感覚と折り合いをつけていく感じが、男性にとっては未知で生々しい女性に内包されたものの普遍にも感じられて。
    なんというか、その激しさとたおやかさとに、自らのジェンダーでは理解しえない禍々しさと強さと隠さない真正直さに捉われる。

    二人のありようの異なりと連鎖が、女性の自らへの感覚の主観と客観が縒り合されることで生まれる感覚を導き出して。

    この作品、女性が観たらどのように感じるのだろうか。とても良い意味でジェンダーによって感じ方にかなりの差異が生じる作品かもしれないとも思ったことでした。

    ・ワワフラミンゴ『どこ立ってる』

    作り手の公演にはこれまでに何度も訪れているのですが、今回のように広い舞台で観るのは初めて。
    毎回作品を観るたびに思うのですが、どうすれば、ここまでに一瞬去来するものを形に作りこめるのだろう・・・。
    刹那の感覚が、時として質量すら失うほどに恐ろしいほど研がれ、観る側はその味わいをすっと供される。しかも、その解像度は空間が広くなってもまったく遜色ない密度を保ち、むしろ広がりがあることでの、新たな感覚での表現が生まれていて。

    走る速さと歩く速さのアンバランスは滑稽でありつつ、そこから観る側が感じるずれの感覚の既視感に思い当たる。腕だけが出ているものを広い舞台に引っ張り込もうとするときの隠れた側のためらい方なども、その人物の心情を内と外の両方の視座からしなやかに描き出していく。

    一つのシーンの、一つの会話や一つの動作や呼吸までが、とても丁寧に良く作りこまれていて、現われるものがとてもクリアで上質の可笑しさがあって。でも織り込まれるウイットは観る側をしなやかに捉えつつ先に一方で観る側にやってきたときに、何かを共振させるような汎用性を兼ね備えているのです。

    ほんと、この感覚、癖になるのですよ。
    舞台の絵面の淡白さや物理的な時間の短さと、受け取ったもののボリューム感がすてきに異なって感じられたことでした。

    ・Q『スーシーQ』

    冒頭こそ、どこか奇異な、奇想天外な世界にも思えるのですが、やがて筋が通り、顛末が解けて、そこに差し込まれる表現たちを支える骨格になっていく。

    役者たちの動作に圧倒的な切れがあって、一人ずつの身体が表すものにメリハリを持ったしなやかなデフォルメがあって、その刹那ごとの印象があとから追いついてくるような不思議な感触に惹き込まれてしまう。
    映像も、表現しようとするものを、時に示唆し、あるいはあからさまに照らし出して。

    この作品を説明するのはある意味とても難しくて、舞台に演じられることや美術、照明、役者の秀逸な表現力などはあるがままに言葉にできるのですが、理屈よりも一歩感性よりの部分で観にる側に渡される命を繋ぐことと食べることの重ね得ないなにかの交わりの感触は舞台表現だからこそ表し得るように思えた。
    終演後もその感触が、解けずにやってきたままに残っておりました。





    *** ***

    観終わって、作品ごとに、人によって合う合わないというのは、どうしても出てしまうのかもとは思うのですが、たまたま私的には好物ばかりが集められていたこともあり、団体それぞれの描く志や、それぞれに異なるベクトルの豊かさに心を奪われて。

    単に短編と括りえない、それぞれにしっかりと質量をもった5作品に、がっつりと満たされたことでした。

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    2013/09/15 12:07

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