emiko 公演情報 保木本真也がプロデュース「emiko」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    コメディって…!?
    「黄金のコメディフェスティバル」千秋楽ぶっ通しスペシャルにて観劇。もしこのイベントが純粋な演劇コンペであったなら、バルブはこの作品に一票を投じていたかもしれない。それくらいの佳品。だが、コメディコンペというイベント趣旨を考えると、やはりこの作品には入れられなかった。たびたび笑わせてはもらったもののセンチメンタルに過ぎるこの作品をコメディとは捉えられなかったのだ。他の投票者の皆さんも思いは同じだったのか、本作だけが俳優賞を含め何の賞にもあずかれず、無冠という結果に。作・演出家は王道的コメディをあえて避け、ダメもとでこの「emiko」という、6作品の中でただ一つ口語演劇の演技メソッドを採用した一風変わった作品をぶつけてきたのだろうが、“コメディは多様”ということを示しただけでも意義深い一作だったと言えよう。
     しかし、同じくセンチメンタルな色合いが強いPMC野郎「死が二人を分かつまで~」がグランプリに輝き、本作が無冠に終わるという、その分かれ目は一体どこにあるのか? バルブはなぜ前者をコメディと捉え、後者をそうは見なさなかったのか? さらに言えば、コメディとはいったい何なのか?
     考えれば考えるほど分からなくなってくる。

    ネタバレBOX

     PMC野郎の作品では笑いが目的であるのに対し、本作において笑いはあくまで手段にすぎない。バルブが前者をコメディと捉え、後者をそうは捉えなかった理由の一つはここにあろうかと思う。
     PMC作品における無数のギャグも感動的なラストを盛り上げるための手段、引き立て役に過ぎないと言えなくもないが、ここが難しいところで、PMCの諸ギャグは作品全体を貫くセンチメンタリズムと相関関係にある一方でそれからの独立性も高く、例えば三姉妹のそれぞれが父親に意表を衝く彼氏を紹介する冒頭シーンなどはそこだけを抜き出してショートコントとして上演できるくらいお笑い方向に大きく振れており、これをはじめとするいくつかのシーンはセンチメンタリズムとほぼ無関係だと言ってさえよい。
     一方、「emiko」という作品に仕組まれたユーモアの数々は作品全体を貫く哀切さと強い相関関係で結ばれており、可笑しみが増せば増すほど切なさも増すような構造をこの作品は持っているのだ。
     ともに30歳を過ぎて定職にも就かず、焦りながらも地に足のつかないその日暮らしの同棲生活を気はいいがダメな彼氏と送っている主人公の笑子(えみこ)は「絵本作家になる!」とバイトをやめて“キノコ紳士”など奇妙なキャラクターが登場する独りよがりな作品を売り込む先もないままに家で描いている。
     キノコ紳士は作中人物という分際もわきまえずに笑子に語りかけてき、笑子がやめたバイト先の元上司と掛け合いまで始める始末。
     こうした妄想的シーンは着ぐるみを着て作中人物に扮した役者が小林タクシー演じる元上司と実際にやり取りする形で表現される。現実のシーンがリアリティ重視の口語演劇調で演じられるのに対し、妄想シーンは喜劇的なおどけた調子で演じられ、笑いは主に妄想シーンがさらっていくのだが、現実を見ようとしない笑子に甘言を吐きさらなる泥沼に引きずり込もうとするキノコ紳士と現実に目を開かせようと笑子に警鐘を鳴らす元上司の可笑しな会話はユーモアが増せば増すほどそれと裏腹に痛切味も増していくという構造を持ち、笑子を苦しめる。
     こうした妄想、さらには元上司と同じく“現実派”の女友達によって目を覚ますよう促され、そこへ加えてフリーターの彼氏がスーツを着て就職活動を始めるというまさかの事態が起きるに至って、笑子は夢見がちだったそれまでの暮らしに見切りをつけ、彼氏とともに地に足のついた人生を歩もうとする。
     ハッピーエンドと取れなくもないが、反面、“青春期の遅すぎる終焉”を描いたとも言えるこのエンディングはあまりにも哀しい結末ではないだろうか?
     この哀しみを際立たせるため笑いが或る意味で利用される本作において、笑いは目的ではなくあくまでも手段。ユーモアはペーソスのしもべ。
    「emiko」はゆえにこそ多くの人にコメディとは認識されなかったのだ。
     本作がコメディと認識されづらいもう一つの理由として、作・演出家の作家性が強すぎることがあげられる。
     作家性とは何かと問われたなら、“名づけえない、もしくは、まだ名が与えられていない感情なり世界観なりを表現しようとする志向性”とでも言おうか。
     例えば、松尾スズキと三谷幸喜を比べるなら、松尾スズキのほうが遥かに作家性は強い。それは松尾スズキが、便宜上「人間の暗部」などと呼ばれているがそのじつ既存の言葉では言い表せない何ものかを表現しようとしているからで、同じような傾向は本作の作・演出家にも認められる。
     表現しようとしているものは松尾スズキと異なろうとも、“まだ名を与えられていない何か”を表現しようとする意志において両者は共通している。
     ここでとりあえず「センチメンタリズム」「哀切さ」「痛切味」などといった言葉で表現したものは本作で保木本氏が表現しようとしている何ものかに似て非なるもので、上に挙げたような陳腐な言葉では言い尽くせない何ものかを表現したいからこそ保木本氏はこの作品を作った。その結果、本作はコメディの枠を踏み越える魅力をはらんでしまい、結果、コメディとは見なされなかったのだ。
     松尾スズキ率いる大人計画が爆笑を呼ぶ作品を作っていながらあまり“コメディ劇団”と称されることがないように、たとえ多くの笑いを生もうとも笑いを超える何ものかのほうが勝っている作品は軽々にはコメディとは呼ばれないのである。
     第一回「黄金のコメディフェスティバル」はコメディと聞いて多くの人がイメージしそうな騒々しい作品が目立ったが、静かなコメディがあってもいいし、コメディなのかどうか判然としない境界的な作品があってもいい。
     開催がすでに決定しているという第二回のコメフェスではより多くの、そしてより多様な作品が上演されることを望む。
     

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    2013/08/30 00:51

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