期待度♪♪♪♪
がんばれ!「セロ弾きのゴーシュ」岡田カレン猫
宮沢賢治の傑作,「セロ弾きのゴーシュ」
「セロ弾きのゴーシュ」は,どういう作品なのか,考えてみる。子どもの童話なので,ひととおり見ておもしろければ良いが,童話とか,寓話の世界は,深いものがある。何か,隠されたメッセージがきっとある。その前に,「ゴーシュ」という名前は,なんだろう。変な名前だなあ。外国人なのだろうか。日本の研究者は,最初,セロのごうごうという擬音から来たと思ったらしい。しかし,フランス語では,左を意味する,a gaucheというのがある。どうも,その言葉には,不器用という意味もあって,「ゴーシュ」となったということらしい。
さて,この名作「セロ弾きのゴーシュ」は,かっこうが良い例だが,自分は,「ドレミファ」を教えてほしい,と懇願しているが,実は,なかなかの音楽理論家なのだ。「音律が単なる音律ではない」ということになっていく。作品全体には,梅津時比古は,近代主義への反発が秘められているのではないか,と主張している。それは,どのようなことであろうか。
まず,楽長にしかり倒されているゴーシュは,単なる楽団員なのだ。かれは,西洋音楽では,自分をどのように個性的に表現するか,そういうことに関心がある。さらに,そのために,技量をみがく,美しい音楽ができればそれで良い。ここでは,われわれの生きる世界は,とかく,人間中心の世界だ。人間がいっさいの中心に必ず来ている。ただ,怒ったり,どなったり,しながらも,ゴーシュは,猫・かっこう・狸・野ねずみ,などと,同等の立場に身を置くようになる。その価値観では,人間は必ずしも中心ではない気がする。音楽は,あくまで音であって,場合によっては,動物の病気も治してしまうらしい。所詮,音楽など,自然から,音を切り取って,細工しただけだから。
宮沢賢治が,西洋近代主義に,少しばかり「反発」を感じても,この「セロ弾きのゴーシュ」は,そのことを特に言い立てているわけではない。人間中心の近代主義に,少しばかり疑問を提示している,としか思えない。そこで,作品は終わっている。あとは,読者が,この作品をどう理解するか,そういうのは,まったく自由なのだ。いずれにせよ,音楽を奏でる主体が,あくまで自分であったゴーシュは,アンコールの頃には,自分が弾いているのか,誰が弾いているのか,よくわからなくなっていく。近代主義,自分を表現する音楽では必ずしもない。自然の中にとけこみ,自然と同化し,自然に抱かれる,そういう賢治の好きな世界が始まる。
参考文献:ゴーシュという名前(梅津時比古)東京書籍
『セロ弾きのゴーシュ』は,宮沢賢治の作品だ。賢治は,「雨ニモ負ケズ」の詩にあるように,広い心の持ち主だ。喧嘩を嫌い,人の悪口をいわないタイプだ。その思想的背景には,仏教思想,具体的には,法華経があった。賢治は,童話の中に,仏教の広くて,深い世界を実現しようとした。その点で,子どもが読んでも良い物語であるが,教育者などが読むと,成績偏重の教育がどこか空しいものであると感じるようになるだろう。
宮沢賢治の『注文の多い料理店』は,おもしろい。これは,人気専門店の話ではない。店主である山猫が,わなをしかける。ひとつひとつ条件を提示し,お客が山猫のごちそうとして,料理されてしまうと言う恐怖の童話だ。何のためにこの童話は,書かれたのだろうか。どういうことが言いたいのだろうか。賢治は,優越感に浸って,真実を見抜けない,「はだかの王様」的な世界を描いているのではないだろうか。
宮沢賢治の『風の又三郎』は,常識が通用しない転校生の対し,村の子どもたちが,伝説となっている悪霊でないかと,うわさして恐れる。とうとう,転校生は締め出され,忘れられてしまう。交流が途絶えてしまうと,皆少し寂しくなる。やっぱり,あの子は,流れ者,風の又三郎だったのだ。賢治が死んだ1934年に発表された。もとは,「風野又三郎」だった。1974年,唐十郎によって,戯曲化。1976年,別役実により,脚本化。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は,代表作。漁に行ったきりで,父親が行方不明になったジョバンニは,居場所を失う。彼には,カムパネルラという友人が一人いた。二人で丘に登り,そのまま銀河鉄道に乗り込む。銀河鉄道の旅は,銀河に沿って,北十字星から,南十字星で終わる。死別した賢治の妹のことをイメージしている作品かもしれない。
現実から,夢の世界に迷い込み,再び現実に戻って来る。『銀河鉄道の夜』は,そういう作品構成である。僕は,こんなに悲しいんだ。もっと,もっと,きれいな心を持ちたい。向こうに見える,小さく青い煙を見て,静かな気持ちを取り戻したい。僕は,静かな気持ちを取り戻したい。詩と童話の融和した世界である。
参考文献:宮沢賢治の世界(高橋康雄),第三文明社