マシュー・ボーンの『ドリアン・グレイ』 公演情報 TBS「マシュー・ボーンの『ドリアン・グレイ』」の観たい!クチコミとコメント

  • 期待度♪♪♪♪

    みたい
    『サロメ』もいいけど,こちらのオスカー・ワイルドも期待してます。

    6

    2013/07/03 13:06

    0

  • 『ドリアン・グレイの肖像』のプロットは,ドリアンが,ヘンリー卿とバジルの欲望をかきたてる存在であることを前提としたものである。その点では,確かに,不道徳きわまりない出だしなどであるが,作品全体は比較的静かだ。美青年を愛するとか,少年愛とかの作品かと思うと,これは少し違うのだ。

    ドリアンとシビル・ヴェインの恋は,身分ちがいの恋だけなのだろうか。ドリアンが愛したのは,シェークスピア劇のロザリンド,つまり男装した美少女だったともいえる。ここで,ジェンダーがあいまいになっている。ドリアンのキスによって,シビル・ヴェインは,シェークスピア劇の世界からも目覚めると同時に彼女は,ドリアンの愛を失うのである。

    というわけで,普通の童話では,目覚めて,王子の愛にしわあせを得るのが,逆になる。同性愛者が,いたずらで書いた物語と言われるゆえんである。この物語に終わりで,肖像画は,決して戻ってはいけないとの批判もあった。それは,肖像画が醜くなってしまうのでは,ありきたりの老醜の物語になってしまうからだ。それもまたひとつの意見ではあろう。

    いずれにしても,作品自体はさほど背徳的でもないが,オスカー・ワイルドが性倒錯者であったと評価があったので,この作品はひどく批判された。私生活が乱れている輩の書く作品にろくなものはない,ということかもしれない。

    ドリアンは,画像と入れ替わりたい願い,その願いは叶った。だが,彼は,醜くなった画像と永遠の美しさを保つ肉体の落差に耐えられなくなり,画像を刺すことによって,自らの死を招く。物語は,やはり,ドリアンを主人公として,ワイルドの分身を描いているものなのだと思う。

    ヘンリー卿は,明らかに全能の語り手ではない。彼は,物語の最後まで,テキストの冒頭の画像の青年の美青年を見つめている。読まれることを拒むテキスト。ドリアン自身は,いつでも美しい芸術作品になりかわりたい。時間を消去したい物語でもある。18年の物語。生ける画像,とインペイされた物語。

    ドリアンの生は,蜘蛛の巣だらけの屋根裏部屋に隠される。彼の生は,読まれることを拒むテキストとして,画像という棺に封じ込められ,屋根裏の墓場に埋葬される。ヘンリー卿はいう。バジルについて,魅力的なところは,すべて作品に注ぎこんでしまい,実人生は,偏見・主義・常識だけの人物なのだ。

    2013/07/10 06:07

    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』という文学作品は,演劇・ミュージカル・オペラ・バレイ・映画と,広汎に作品化される世界の名作となっていきます。この小説は,1890年頃に最初に出版されています。

    オスカー・ワイルドは,子どもの頃から女の子の服を来た写真も残っていて,大人になっては,本当の性倒錯作家になったといわれています。たしかに,『ドリアン・グレイの肖像』のはじまりは,画家バジルと,ヘンリー卿が,ドリアン・グレイの美貌にのぼせあがっていますので,危ない傾向は見えます。

    しかし,画家バジルは,純粋にドリアン・グレイの肖像に愛着を持っているだけだったり,ヘンリー卿も立派に妻が存在する人であったようで,作品内には,たとえば,プルーストの小説的なけったいな場面はありませんでした。

    作品は,後半部分は,私には,少し複雑であり,やや退屈になっていくので,そろそろ終幕とします。

    ロザリンドを演じていた娘に対する愛は少しはあったと思います。偽名を使っていたのも少しのいたずらッ気だと思います。ただ,このため娘の弟は,苦労して,ドリアン・グレイを探しあてますが,結局,若すぎる彼が当人とは思えないのです。彼も非業の最期を遂げますが,ドリアン・グレイのナイフ自殺は劇的です。終わってみると,見事に絵は絵にもどり,ドリアン・グレイは,老いた彼自身になっていたのです。

    参考文献:『ドリアン・グレイの肖像』OscarWild(光文社古典新訳文庫)

    2013/07/04 20:08

    ドリアン・グレイと,娘は,相思相愛になっていいムードにもりあがっていきます。ここで,ほんのちょっとしたいきちがいがあって,ふたりは,ロミオとジュリエットを現実社会で実演していきます。

    まず,娘は,さほど芸術的なものを志向してシェークスピア劇を演じていたわけではありません。とりわけ,悲劇関係では,なんとなく悲しみを演じていたわけです。母親たちとの貧乏暮らしを救ってくれたのは,しがない座長だったわけで,いつかそのような厳しい演劇から足を洗い普通のママになりたかったのです。それが,もしかして,今訪れ,演劇そのものがいわばどっちでもいいものになってしまったのでしょう。

    これに対し,ドリアン・グレイは,出会いが,女優としての輝きを持つ娘に恋していたので,シェークスピア劇を,その悲劇を満面の笑みを持ってぶちこわす演技となったことに深い失望を抱きます。それは,彼女に対し,激しい怒りとなり,声を荒げて批判します。部屋に戻って,ただただ哀れみを請う娘の姿を思い出し,自分も少し悪いことをしたのではないかと反省しますが,時すでに遅し,娘が毒を飲んで,自殺してしまったことを知るのです。

    画家バジルは,このような時に,のーてんきに,自分の絵をいよいよ出展しようかと気が変わったから,どうせ飾っていないなら一ヶ月貸してくれとしつこくせがみます。しかし,ドリアン・グレイの肖像画は,この時点で,醜く変貌し始めていたので,彼は,もはや誰にも,絵を公開できないと考え始めていたのでした。ドリアン・グレイ,実際には,老化し,醜くなっていくのですが,この小説では,トリックが働きます。ドリアン・グレイは,いつまでも肖像画の書かれた時期のままだったのです。このあたりから,この小説は,怪奇オカルト小説に変貌していきます。

    これで,やっと第九章まで来ました。半分くらいでしょうか。

    2013/07/04 20:08

    ドリアン・グレイは,ある日ぼろ劇場の前で,客引きにあって,くさいシェークスピア劇をみるはめになった。だが,そこにいた少女に完全に心をつかまれて,彼女が出る舞台を毎日みるようなことになってしまった。これって,よくある話かもしれませんね。

    ロンドンの街を歩きまわるドリアン・グレイ。そこで,何かがぼくを待っている。美の探求こそ,人生の真の秘密だ。ぼくは,生まれて初めて,美しいものを見た。単に美しいものは,見ているだけで目に涙が浮かんで来るんだ。演劇では,よくあることですね。

    ある夜,少女は,アーデンの森で,ロザリンド(お気に召すまま)を演ずる。女優こそ愛すべき存在と思って,ドリアン・グレイは,少女と婚約にいたる。

    ここで,ドリアン・グレイは,画家バジルを批判する。彼は作品に自分の魂を注ぎこむから,実際の生活ではきわめて凡庸な男でしかないのだ。なべて,世の優れた芸術家はみな彼のような欠点が見えると指摘する。

    画家バジルは,自分に美しい肖像画をプレゼントしてくれた。しかし,ぼくは,この肖像画に嫉妬している。だって,半月もたつと,自分は少し年老いている。なのに,肖像画の中の自分は,少なくとも今より若く美しい。その関係が逆転するなんてことは,絶対ないのだから。

    これで,第六章まで来たことになります。

    2013/07/04 20:06

    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』を読み始めてみよう

    この小説の最初の方は,美貌のドリアン・グレイに対し,画家バジル・ホールワードと,芸術の命は,新しい手段の出現,あるいは,魅力ある芸術の対象となる人物の出現,であると信じているヘンリー・ウォットン卿が,火花を散らす三角関係の話から始まる。

    初めて画家バジルが,ドリアン・グレイに会った印象は以下のようなものである。
    「ちょっと振り返り,そして初めてドリアン・グレイを見たんだ。目が会った途端,自分が青ざめていくのがわかった。奇妙な恐怖に襲われたんだ。」
    これって,恋した少年のようなもんですね。ほとんど。

    ヘンリー卿は,ヘンリー卿でこのようなことだ。
    「ヘンリー卿は隙のない微笑を浮かべながらドリアンを眺めていた。彼は,どんな時に黙っているべきか,心理学的に正確に心得ている。彼はとても興味を惹かれていた。自分の言葉がドリアンに突然与えた印象に驚き,・・・」
    ヘンリー卿は,ドリアンの心をすっかりキャッチしてしまうのですね。

    できあがった一枚の絵を見て,ドリアンは,自分はこんなにも美しいのだという思いに茫然とするし,自分の美しさの影にその意味を探ろうとするわけです。

    ちなみに,ドリアン・グレイの母の恋は,どのようなものだったか。
    それが,作品の第三章で明らかにされます。

    マーガレット・デヴァルーは,ケルソーの娘だったのですが,娘が意にそわない駆け落ちをしたことに父は腹をたて,やくざに決闘をしかけ,娘を奪還するのです。娘は,戻っても,父とは口もきかず一年もしないうちに子どもだけ残して,ドリアン・グレイだけ残して死んでしまったということでした。

    『ドリアン・グレイの肖像』は,第三章まで読みました。

    2013/07/04 20:05

    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』序文を読んで,

    芸術家は,美しいものを創造する。批評家は,美しいものから受けた印象を,別の手法で伝えるだけだ。美しいものの意味をあえて否定するのは,まちがっている。本は良く書けているか,いないかが大事で,倫理的なんて観点はさほど意味を持たないだろう。シェークスピア,テンペストの怪物キャリバンのことを誰が笑えるのかい?

    芸術家は,何かを証明しようとする科学者ではありえない。
    芸術家は,悪徳も美徳も自らの素材,作品のネタでしかない。

    すべての芸術にある表層と象徴。危険を冒して,表層の下にもぐりこむ。危険を冒して,象徴を読めばいい。ある作品は,多様であれば,作品は新しく,複雑,活力があるだろう。でも,いずれにせよ,芸術というものは,ひとびとの心のなぐさめになって,カタルシスにはなるが,なべて,実用的な役にはたたないことを知るべきだ。

    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』序文を読んで,

    2013/07/04 20:03

このページのQRコードです。

拡大