泳ぐ機関車 公演情報 劇団桟敷童子「泳ぐ機関車」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    FT的な?演劇も好きだけど・・
    桟敷童子も自分はとても好きで、
    2006年のスズナリの泥花以降はほとんど観ているはず・・(2つくらい観れなかったのがあるのかな・・?

    ようは物語があろうがなかろうが中途半端な舞台は観る気がしないということで・・。

    じゃあ、桟敷童子の舞台のいちばんの良さは物語か、
    と言われると、そうとは言えないと思います。

    今回は、最近のなかでいちばん間近で役者さんたちの演技を観られたせいか、
    そのことが良く分かったように思います・・
    (別にほとんどのお客さんも既に気づいていることだとは思いますが(汗

    ネタバレBOX

    物語が昭和で九州の炭鉱と言うこともあってか、
    若い観客(自分も含んで良いですかね・・
    には馴染みが無い設定かもしれないですが、
    ちょっと冷静に考えれば、今時、あんな表情をして喋る役者さんたちのいる劇団は無い事が分かります。
    (どういう表情か、と言われると観てもらうしか分からないと思いますけれど・・ちなみに木村伊兵衛の写真なんかを見れば分かると思うんですが、昔の人たちは今の人たちよりずっと人間臭い表情をしているように思います。桟敷童子の役者さんたちはそうした表情に近ずけていると思います

    物語は、と言えば、
    題名が「泳ぐ機関車」で赤堀の炭鉱の話で、前作の前日譚となれば、
    既に筋は見えている・・ハズ。

    なのに、既に見えている筋の中で、
    登場人物たちはとても人間臭く描かれていて、一人ひとりから目が離せません。

    理想に燃える父親は、朝鮮特需を自分の力と勘違いして用心を忘れ、強いように見えて打たれるとあっという間に朽ち果てていきます。

    死んだ母親は、主人公の思い出の中で、
    夢の中でバッターボックスに立つ主人公を、
    まるで寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」みたいに
    朗らかに盛り上げてくれます。

    その母親の弟は、
    どこまでもカッコ良く、最後に良いところで腕っ節の強さを見せつけてくれます。
    (源義経みたいだな(笑

    おばぁちゃんは親族以外誰も信用せず、
    強かさを備えながら時代の波に完全には乗れず、
    父親の弱さを最初から見通しながら、
    孫の主人公に期待を寄せつつ死んでいきます。

    その親族のおじさんは
    ねずみ男のようにずる賢く甘い汁を吸いながら、
    それでもかわいく簡単にボロを出す憎めなさを持っています。

    父親の右腕の平治は、
    どこで拾われてきたのか、
    恐ろしく抜け目なく、汚い仕事も平気でこなしながら、
    最後には貪欲にはなり切れないところに、
    どこか育ちの良いお坊ちゃんの落ちぶれた様子を思い描いてしまいます。

    主人公の担任の教師は、
    どこかひょっとこみたいな可愛らしい(色っぽいという意味ではなく
    表情を浮かべながら、
    必死で主人公を庇ったり、苦しんだりします。

    挙げはじめるとキリが無いですが、
    どの登場人物も、どんな職業の人たちも、
    必死で死に物狂いで生きて、
    その中には貴賤の区別などまるでないのです。

    それはどの人も主人公の心を通してみた風景だから、
    全ての人が甘くほろ苦く、
    それまではずっと寄り目だった主人公が、
    ラストで泳ぐ機関車をバックに前に進む時、
    その真っ直ぐに見据える目の中に
    鮮やかに集束されていくかのようです。

    他の舞台だと、スポットライトの当たるところからの距離によって、
    作者の彫り上げた人物描写の深みが
    当然のように変化しますが、
    桟敷童子の特に今回の舞台にはそれが無いように思います。

    完全な悪役と言うのは全く存在しない。

    端役の一人ひとりに至るまでそれぞれの生活を刻み込み、
    怒るにしても納得できる理由を背負っているような。

    この舞台は、物語というよりかは、
    苦しくとも人間らしい人びとのいた、
    1950年代という眩い時代を描くためにあったのかな、とも思います。

    別に昔を美化するつもりもないのですが、
    ちょっとカメラを持ってみれば分かる通り、
    いくら写真を撮ってみても、
    かつての先人たちのネガの中に映っていたのには遠く及ばない残像が映るだけで、
    桟敷童子はそうした機械では再現不能なものを、
    人間の声と体を使って、
    人びとのまえで豊かに物語るから、素晴らしいのかな、とも思うのです。

    そしてそうした芸当も、劇団員が長年積み重ねてきたチームワークでのみ可能だと思います。

    そうした意味では桟敷童子と地点は似ているように思います。

    自分は、作品の構造によって観る舞台を選んだことは一度もないです。
    (実際、地点も桟敷童子も2006年以降は観れる限り観に行っているので・・

    中途半端が一番よくない。

    本気になって何かを表現しようとするならば、すべては役者の顔に現れるように思います。

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    2012/12/18 01:50

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