ハヤサスラヒメ 速佐須良姫 公演情報 天使館「ハヤサスラヒメ 速佐須良姫」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    大駱駝艦は大地を踏みしめ、天使舘は宙を行く
    天使舘主宰の公演。
    天使舘・笠井叡と大駱駝艦・麿赤兒はが、ガップリ四つに組んだ。

    ベートーヴェンの第九を鳴り響かせ、大祓。
    年の瀬にふさわしい公演。

    ネタバレBOX

    オープニングが素晴らしい。
    何もない舞台に照明が丸く当たり、暗転、再び照明が灯るとそこには少数の男性を含む20名ぐらいの女性たちが円陣を組んでいた。
    もう、これだけでジビレてしまった。

    笠井叡さんが踊る、踊る、踊る。とにかく踊る。御年69歳とは思えないほど軽やかに舞台の上を滑るように踊る。
    まるで、少しだけ(ほんの数ミリだけ)宙に浮いているような感覚すら覚える。

    対する麿赤兒さんは、客席から現れる。音もなく横に立っているのに気づきびっくりしてしまった。音や気配などを一切出さず、客席を歩き、笠井叡さんが踊る舞台に上がる。
    この静けさ、どっしり感が大駱駝艦の現在の姿ではないかと思う。

    天使舘から笠井叡さんとメインの4名、そして大駱駝艦からは麿赤兒さんとメイン4名が参加している。
    大駱駝艦は白塗りで、天使舘はそのままの裸で舞台に上がっているが、まったく同じ見た目であったとしても、この2つのカンパニーはひと目でわかるのだ。

    天使舘の面々は軽やかに宙へと身体を動かし、大駱駝艦は足に根を生やしたようにどっしりと大地を踏みしめているからだ。

    2つの違いは「腰」にあると感じた。腰の入り方、位置がまったく違う。
    したがって、身体自体の造り方もまったく違うのだ。びっくりするほど違っていた。

    それは、「舞踏(踊り)」というものへの「思想」の違いであり、身体がそのすべてを示していると言っていい。

    2つのカンパニーがぶつかり合って、改めてそれを実感した。

    今回は、天使舘が主催であり、笠井叡さんの振り付けであるので、今まで観たことないような、大駱駝艦の、速い舞踏があった。ひたすら第九に合わせて踊るような感じ。

    それでも、「大地を踏みしめている」さまは変わらない。

    特に最近は、すべてを削ぎ落とし、「立っているだけで舞踏」と言い放つような麿赤兒さんなのだが、笠井叡さんとのぶつかり合いでは、火花を散らして踊っていた。

    笠井叡さんの「軽み」みたいなものも凄いと思う。麿赤兒さんが舞台の中心で踊り、決まった、というところで、舞台袖から「麿赤兒!」というかけ声まで掛けてくる(麿さんは、ラストで笠井さん「アキラちゃん」と呼んだのは笑ったが)。なんとも言えない「軽さ」が強さでもあろう。その徹底ぶりは凄まじい。

    第九のラストでは、バックの女性たちも舞台に居並び、圧巻であった。
    高らかに流れる第九にふさわしいものだ。
    そして、ラストは、笠井叡さんと麿赤兒さんの微笑ましい姿があり、柔らかな気持ちになってくるのだ。


    公演のタイトルである、速佐須良姫とは、大祓の祝詞にも出てくる神様で、底の国にいらっしゃり、穢れなどを流し消滅してくださるという。

    そして、音楽は、ベートーヴェン第九。
    つまり、「歓喜の歌」で、大祓を終え、祝福の新年を迎える。
    そんな、まるで年末にふさわしい公演内容だったと思う。

    もちろん、単に「年末」「大祓」ということではなく、「(良い)転換」という意味も込められているし、芸術への賛歌も込められていると思う。

    大駱駝艦は、震災直後の昨年3月に『灰の人』を公演た。そこで、「ミタマシズメ、ミタマフリの念を込めて、ただひたすらをどるのみであります」と、麿赤兒さんが公演の冒頭に語ったように、鎮魂の舞踏であった。
    そして今回は、天使舘の公演なのだが、さらに大祓をする。
    これは偶然ではなく必然としての、公演であったのではないか。

    それには、笠井叡さんと麿赤兒さん、お二人の強い想いが込められていたと思う。

    次は、大駱駝艦主催で行ってほしいとも思う。
    こうした「他流試合」は、土台がしっかりしていて、かつ柔軟性のあるカンパニー同士で、もっと行うと面白いのではないかと思った。

    ちなみに、公演で使われた第九は、フルトヴェングラーがタクトを持ち、バイロイト祝祭で演奏されたものを、麿赤兒さんが気に入ったものだという。
    だから、演奏の最後には拍手が入っていた。それがまた効果的だったのだ。

    この盤を使ったことを「文化」という表現で麿さんが述べていたと思うのだが、それで思い当たることがあるので、引用する。
    まさに今回の公演内容とも、共鳴している内容で、麿さんの意識にも似たようなところがあるのでははないかと思うので。

    フルトヴェングラーは、戦中ナチスに協力したという疑いで、非ナチ化裁判にかけられた。
    そのときの彼の最終弁論の一部である(うろ覚えなのでネットで検索しました)。

    「芸術とは、政治や戦争、あるいは民族の憎悪から生まれたもの、また こうした憎悪を生み出すものとは無縁であるというのが、私の考えである。芸術は、こうした対立を超越しているのだ。人類全体が一つの共同体であることから 生まれ、またこれを顕し、またこのことを証明する何かが存在せねばならない。このことを述べるのは、現在ではいつもよりいっそう必要なことである。こうし た事物には、まず宗教、さらに学術、そして芸術がある。たしかに芸術は、それを生んだ国民を証すものである。しかし、その国の政治とは無縁である。芸術は 民族から生まれるが、それを超越する。我々のこの時代において政治に左右されないことこそが、芸術の政治的役割なのである」

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    2012/11/30 07:20

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