満足度★★★★
極彩の神秘
マルケスの作品は不可思議な出来事に満ちている。
圧倒的な色彩に紡がれる情景はしかし奇妙なリアルさも伴う。
西洋から見た東洋同様に、そこには南米の神秘が潜む。
己の過失から祖母の家を燃やしてしまったエレンディラは、
娼婦となり砂漠のテントで日夜客を取りその負債を返すことを余儀なくされる。
そんな中、西洋人との混血の青年ウリセスと出会い自由への逃走をはかるのだが・・・。
ウリセスはダイヤの種子を持つオレンジでエレンディラを
誘惑する。
聖書にある禁断の果実はオレンジだという説がある。
またウリセスは蛇を使い薬を売り、自身も地にはいつくばる。
彼を蛇になぞらえると、おもしろい解釈ができると思う。
南米の神話を思い出してみる。南米神話で有名な神に
ケツアルクァトルがいる。彼の別名は「翼ある蛇」だ。
そして白い肌をしている。
そうなるとウリセスとイメ-ジが被らないだろうか。
西洋と南米の狭間、人と天使の狭間、青年と少年の狭間、
現実と空想の狭間。狭間に産まれたウリセスは現実で苦しむ
エレンディラを救う唯一の縁なのだ。
しかし、二人は愛し合い互いを必要としながらも結ばれない。
どんなにウリセスがエレンディラに添おうとしても、
彼女は一人でいってしまう。
彼女の真の願いは依存からの脱却、
一人は嫌な自分から一人で生きていける自分になりたいのだ。
エレンディラにとってのウリセスの愛の成就はそれを成し遂げてくれることだったのである。
マルケスの不可思議な世界をダリなどのシュルレアリスムに例えるのをよく聞くが、それよりも血の通った
暖かい泥臭い躍動感を私は感じる。
シュルレアリスムは人間の生み出した超現実であるが、
南米のそれは自然が生み出した超現実なのだ。
蜷川が付け加えた最後の場面は蛇足と感じる人もいるだろう。
しかし「タンゴ・冬の終わりに」を見た後だと、
蜷川にとっての孔雀の解釈、象徴についてさらに
考えさせられてしまう。
Aかと思えばB。
Bかと思えばA。
理想か屑か。
あえてウリセスを孔雀にしたのは何故かを考えると、
蜷川先生のエレンディラの解釈が見えてくる気がする。
演出的な部分では、薄いカ-テン越しの舞台は一枚の絵画を見ているようで良かった。
舞台の奥行きをいかし、乗り物や移動を多く使ったのも
劇場ならではなかっただろうか。
音楽も哀愁に満ちていて耳に残った。
役者にしても、ウリセスの少年然としたいたいけさ、
エレンディラの清烈な色気、
祖母の愛嬌ある化け物っぷりが良かった。
特に祖母のインパクトは絶大で、やることなすこと
無茶苦茶であるにも関わらず愛おしくなってきてしまう。
エレンディラは原題は
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」というのだが、見ているうちに
無垢は祖母で無情はエレンディラではないかという
気にさえなってくる。
祖母は夢見る子供の如く気ままな振る舞いをし、
エレンディラは冷徹な眼差しで己を世界を見つめる。
4時間を越える長丁場で終電が危ういことを除けば
面白い舞台だったと思う。
エレンディラはア-ティスト「やなぎみわ」さんの作品を
見て以来気になって仕方がない話だったので、
舞台で見ることができて感慨深かった。