キル 公演情報 NODA・MAP「キル」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    名作がグダグダに
    ここ数年、僕がほぼ欠かさずに見ているのは野田地図の芝居とキャラメルボックスの芝居。しかし、キャラメルボックスはここ2年ほど、当たりハズレの波が大きく(というか、ほとんどハズレ寄り)、お金を払って見るケースがあまりない。ほとんど全てタダで見に行っているし、先日はタダで、時間もあったのに見なかった。野田地図はというと「ロープ」とか「THE BEE」とかはなかなかで、「なんだかんだ言っても、日本の演劇を引っ張って行っているのは野田秀樹なんだなぁ」と思っている。今日はその第13回公演「キル」を見てきた。

    ネタバレBOX

    「キル」は、野田秀樹が夢の遊眠社を解散して、第一回の公演で新作として上演したもの。最初の舞台が94年で、このときのキャストは堤真一、羽野晶紀、渡辺いっけい。このブログで散々野田秀樹の舞台の作り方については言及しているけれど、野田秀樹は三谷幸喜と並んで日本を代表する「あてがき」作家。なので、キルはこの3人でなければベストにはならない。97年の第二回公演では主役の堤真一はそのままに、深津絵里、古田新太を配しての舞台となったが、深津絵里が能力不足という感じで、舞台をやや壊してしまった。しかし、深津絵里は農業少女で素晴らしい演技を見せているので、やはり羽野の役をこなすことができなかったというか、羽野のための役にはどうしてもフィットしなかったということだと思う。今回は10年振りの再々演ということで配役を一新しての上演だった。ちなみに僕は初演、再演ともに生で2回ずつ見ている。

    この「配役を一新しての上演」というのは上にも書いた「あてがき」という部分からして大きな冒険になる。野田秀樹の作・演出の最大の特徴は、「役者の良さ、魅力を最大限に引き出す」という部分で、その才能は初演だろうが再演だろうが当然発揮されるのだけれど、どうしても再演の場合は制約が大きくなる。夢の遊眠社という枠組みの中での再演ではそれでもある程度の質が確保できていたのだけれど、野田地図になってからは「再演はまず間違いなく劣化バージョン」という印象が強い。そういう事情があって、今回の舞台は正直あまり期待していなかった。

    さて、見た結果であるが、もう、舞台の第一声から「あぁ、やっぱり駄目だった」というのが正直な感想。何といってもまず妻夫木聡が全然駄目である。テレビや映画では通用するかもしれないが、決して小さくはないシアターコクーンという場は、彼には明らかに大きすぎる。彼のポテンシャルが高いか低いかはわからないから、もちろん数年後にはここでバリバリやっていける役者に成長しているかもしれない。しかし、今は無理。そして、その相手役の広末涼子も駄目。妻夫木と同じく、彼女にとってもシアターコクーンは大きすぎる。この箱は、決して誰でもがうまく使える箱ではない。紀伊国屋ホールとは明らかに違うのである。「キル」自体はシアターコクーンの設備を前提として書かれているから、当然ここで上演すべき本ではあるが、このキャストでやるべき芝居ではない。それは、開演5分後ですでにわかってしまった。広末は以前毬谷友子が「贋作 桜の森の満開の下」でやったような声の使い分けにもチャレンジしていたが、ベースの声さえ通らないのに裏声が通用するわけがない。その使い分けという演出は野田の指示かもしれないが、完全に失敗していたと思う。何しろ、テムジンは世界を征服しようとする野心家であり、シルクはそのテムジンを一目ぼれさせるだけの美貌と高貴さを兼ね備えていなくてはならない。両者とも舞台の中でそのカリスマ性をほとばしらせる必要があるというのに、立ち居振る舞いも、声も、全てにおいて脇役であるはずの結髪に圧倒されている。例えばテムジンの「ミシンを踏めっ」という台詞に全く迫力がないのだから、話にならない。

    今、ちょうど映画館でやっている「椿三十郎」。この映画のネットでの評価は、「やはり映画は脚本。役者がタコでも脚本がしっかりしていればちゃんと楽しめる。織田は駄目だが、この作品は脚本を旧作と全く変えていない。おかげでエンターテイメントとして成立している」というもの。多くの観客が、旧作とは別物だが、それはそれで楽しめる、と書いているようだ。

    しかし、残念ながら芝居は違う。どんなに素晴らしい脚本であっても、それを演じる役者がタコだったらやっぱりだめだ。今回は、夢の遊眠社のライバルとして小劇場界を引っ張っていた第三舞台のOB、勝村政信と、同じ時期に活躍し、野田地図の芝居にも多くの役者を出している劇団☆新感線から、高田聖子が参加し、舞台を強力に支えている。この二人の活躍はもちろん期待通り素晴らしいと思うが、それが素晴らしければ素晴らしいほど、主役二人の弱さが際立ってしまう。実際のところ、勝村、高田は自分達が目立ちすぎないように、特に高田は気を遣って存在感を消すような努力をしていると思うのだけれど、そんな努力もどこへやら。恐らくはプロデューサーや演出者の想像以上に主役二人の力は不足していたんだと思う。

    一気にラストまで全速力で走りきる。難解でもやもやとした感覚の中にキラキラと輝く台詞が散りばめられ、イメージを拡散させるような言葉遊びを盛り込みつつ、ラストの決め台詞で観客にカタルシスを与える、それが野田演劇の魅力だと思う。「少年はいつも動かない。 世界ばかりが沈んでいくんだ。」「いやあ、まいった、まいった」「海の向こうには、妹の絶望が沈んでいます」「びしょびしょになったタマシイが、どうか姿をみせますように」といった名台詞に行き着くまでの2時間を、緊張しながら楽しむような。

    しかし、今日の芝居を見て、わかった。誰もがそのラストへ観客を導くことができるわけではないということを。同じレールの上を走り、同じ終着駅を目指していて、一見同じように走っているのに、到着したのは全然違う場所だったのだ。そこには感動はない。わきあがる感情は、「あれ?キルって、こんな作品だったっけ?」というもの。スピード感がなく、迫力もない。疾走感が全く失われてしまっているのだ。一緒に2時間を走り終えた充実感などは全くなく、自室で寝転んでみかんを食べながら漫画を読み、つけっぱなしのテレビで放送されているマラソン中継のゴールシーンを見ているような、そんな第三者感。その視点から初めて「キル」を見て、「なぁんだ」という思いも寄らぬ感想を持ってしまった。最後にゴールに到着した自分を客観的に見て、「あれ?こんなところで何をしているんだろう?」と戸惑うような。全体を通しての衣装や舞台芸術は素晴らしい。照明も見事だ。そしてそれらが作り上げていくラストシーンの「蒼」は本当に美しい。もちろん、「とびっきりのこの蒼空を着せてあげて下さいよ」という台詞も美しい。しかし、それが心に響いてこない。

    僕は夢の遊眠社のOB数人と知り合いで、頻度はそれほど多くはないけれど、飲みに行ったりすることもある。しらふのままでは聞きにくいのだけれど、お酒が入るとついつい昔の話を聞いたりもする。そして、彼らから感じるのは、「まだまだやりかたったな」という不完全燃焼感である。もちろん役者のみんながそういう気持ちを持っているわけではないと思う。上杉さんなどはさっさと劇団という枠から飛び出して自力でやっていきたかった部類なのかも知れない。しかし、そうではなかった人たちも少なからずいたんじゃないだろうか。でも、彼らは「大将がやりたいことは別のことだから仕方がない」という気持ちだったと想像している。野田秀樹という才能がもっともっと大きく開花することを楽しみにして、劇団の解散を受け止めたんじゃないかと。そして、それはファンも同じ気持ちだったと思う。「なんで解散しちゃうんだろう」「もっと遊眠社としてやってくれ」と思いつつ、野田秀樹が見せてくれるであろう新しい世界を楽しみにして、解散を受け止めた。少なくとも、僕はそうだった。

    実際、野田秀樹氏は、劇団という枠が取り払われて、その可能性を大きくひろげ、そして自分の潜在能力を顕在化することに成功したと思う。それが初演のキルであり、赤鬼であり、農業少女であり、研辰の討たれであり、ロープだったと思う。しかし、その一方で首を傾げたくなるような作品も増えたと思う。そして、そのほとんどは役者に足を引っ張られているケース(一部は箱に原因があると思う)だと思う。

    解散直後に演じた「キル」が傑作だったことが、劇団解散をファンに納得させることに一役買ったことは間違いない。しかし、初演から約15年経って、その作品がこんな形で再演されてしまったことは皮肉であるとしか言いようがない。

    野田さん、劇団を解散してまでやりたかったのは、本当にこれですか?

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    2007/12/17 13:17

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