荒野に立つ 公演情報 阿佐ヶ谷スパイダース「荒野に立つ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ゆえにその名をバベルと呼ぶ
     たった今、演劇でしか表現できないことは何か、そのことを常に念頭に置いて作劇している点で、長塚圭史は演劇界の最前線を走り続けている。
     “目玉をなくした女”朝緒(中村ゆり)と、その友人たち、教師、両親、目玉を探すべく依頼された3人の探偵、といった人々によって、何となく物語らしいものは紡がれていくが、彼らの「旅」は時間と空間が混濁した奇怪な迷宮に囚われ、出口はいっこうに見えない。
     肝心なことは、世界の中心にいる朝緒が“目玉をなくしたことを自覚していない”点にある。長塚圭史が観客に問いかけているのは、この世界を認識している我々の自我そのものが極めて不安定で、個々人の思い込みや妄想によってかろうじて崩壊を免れていて、しかしそのせいでコミュニケーションの基盤となる共同幻想を持ち得なくなっている現実をどうしたらよいのか、ということなのではないだろうか。
     他者との関係を認識できない我々は、自らを「孤独」と規定することすらできないのである。

    ネタバレBOX

     舞台は緩やかな段差のある平舞台、上手やや奥に木が一本立っているのみ。ここがどこであるかは、どのようにも見立てられる。ある時は学校の教室に、ある時は朝緒の家の茶の間に、ある時は探偵事務所に、ある時は潮干狩りの浜辺に、ある時は……。
     それだけならば通常の演劇でも同様であるが、長塚圭史は、その「見立て」を“同時”に行った。過去と現在、全く別の場所が混在しズレていく、時折は“そこにいてはならない人物”を別の誰かが代行する。文章で書いても何だかよく分からないが、たとえば“現在の”父親(中村まこと)が逃げ出した朝緒を追いかけるのに同行しているのは“過去の”朝緒の友人である田端(黒木華)であり、その場所は父親には自分の家と認識されているが、田端には外とも浜辺とも認識されている、といった具合だ。朝緒が失踪している間は、彼女の役割を友人の玲音(中村ゆり)が代行したり、朝緒の夫の代行を探偵B(福田転球)が務めたりする。

     こういうデタラメを「そういうことになっているみたいです」と彼らは受け入れる。「名前」もまた然りで、朝緒は、大学の映画作りの仲間からは勝手に「メクライ(眼喰らい)」と名付けられる。朝緒は朝緒なのかメクライなのか目玉をなくしたメクラなのか。そんなことはどうでもいいとばかりに放置されるが、このようないい加減な設定が「現実に」存在しえるとなれば、それは「どこ」であろうか。
     「夢」の中だけである。

     大学時代の朝緒に映画の主演を依頼する監督が、映画『ふくろうの河』の話をするくだりがある。アンブローズ・ビアス『アウル・クリーク橋の一事件』を原作に、ロベール・アンリコが映画化したこの「悪夢」に関する物語は、数々のフォロワーを生んで、世界と実存の不安定を訴えた傑作と讃えられている。
     アイデンティティーが常に揺れ動き、世界と自分との間に違和感を覚え続け、自らの行動を「ト書き」として語っていなければ安定していられない朝緒は、まさしく、ふくろうの河に吊り下げられた兵士だ。ではこの『荒野に立つ』の物語は彼女の「走馬灯」の物語であるのか。そう解釈することも可能ではあるが、問題はそう単純に解決はしない。
     これが彼女の「悪夢」だとすれば、この夢の中に巻き込まれた人々の「自我」は誰のものなのか、彼女の「代行」を玲音が務めたのはなぜなのか、この世界を仕組んだ「演出家」は果たして本当に朝緒なのか、それとも他に“眼に見えない誰か”がいるのか、等々と、疑問は次々と生まれてくるのである。

     もちろんそれらの「混乱」も含めて、これは「バベルの塔」の物語である。
     「神」は人々の「傲慢」の罰として、我々の「言葉」を乱(=バベル)した。担任教師(横田栄司)が言う。「分かったと思った瞬間に分からなくなる」。言葉という「現実」は、発せられた瞬間に「虚構」となる。所詮、我々は自らの作り上げた物語、虚構の中でしか生きられないが、我々が不幸であるのは、それぞれの抱く虚構に同調し得る共通項を見出せなくなってしまっているということなのだ。
     共通する認識がなければ「客観性」は生まれない。我々は等しく自らの「主観」の中でしか生きられない。それは「実存」を確認できない「不可知論」の世界である。我々の存在そのものが「妄想」である可能性を、誰も否定はできないのだ。

     「我々は、夢と同じもので織りなされている」(シェークスピア『テンペスト』)

     朝緒ばかりでなく、登場人物全てが「我々」である。戯画化され、滑稽なやり取りを演じる彼らはしばしば観客の笑いを誘うが、我々は我々自身を嗤っているのである。その意味で、こんなに皮肉でブラックなスラップスティック・コメディもない。
     我々の観る世界は全て違っている。朝緒は、最後に失っていたことすら自覚できなかった目玉を取り戻すが、それから彼女が行く先は、いずこともしれない。バックに流れる音は、どこかの駅の喧噪か。そこは紛れもなく、混乱の街、「バベル」という名の「荒野」なのである。
     彼女は悪夢から覚めたのではない。別の悪夢を観るための、「もう一つの新しい眼」を手に入れただけなのだ。それが以前と同じ眼であると誰に証明することができるだろうか。
     そして我々もまた、今、ここでこうして観ている悪夢から抜け出す術を持ち得ないのである。

     世界は、恐怖だ。

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    2011/08/13 20:47

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