血の婚礼 公演情報 Bunkamura「血の婚礼」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    アングラ色爆発。しかし「それしかなかったのだ」と胸に響かせてほしかった
    突然の豪雨の中、にしすがも創造舎に到着。
    そして劇場に足を踏み入れた瞬間から、セットを目にして期待が大きく膨らむ。
    舞台脇、後方に暗幕が降ろされ客電が落とされて開幕だ。

    ネタバレBOX

    舞台の前面にいきなりの豪雨。さきほど実際のにしすがも創造舎前の豪雨のような土砂降りだ。
    もちろん、前の2列ぐらいにはビニールシートを手渡しているのを見ていたので、予想できたのだが、その量は予想外だった。
    また、量だけでなく、前半はその雨がずっと降りしきる中での芝居となったことにも驚き。
    てっきり、最初のつかみとしての雨かと思っていたが、ずっと降り続くとは。

    セットとこの効果にはやられた。
    役者全員が常に(ほぼ)ずぶ濡れなのだ。

    ただし、それによって舞台の「勢い」が削がれてしまったように感じた。
    役者の台詞が雨音によって、極端に遮られてしまうことはないのだが、なんだか勢いが感じられないのだ。
    それが狙いであったとしても、物語を推進していく勢いも削がれてしまったように感じてしまった。

    物語は思った以上にアングラ。木馬とか、女優の学ランとか。因縁めいていて。それを外連味とも言えるような演出たっぷりで見せる技はさすがだ。
    ドラムを叩きながらの行進は、その音とともにビジュアル的にもカッコいい。ドラムの上で跳ね上がる水しぶきもたまらない。
    また、電車が通る、のシーンは役者の顔がずらっと並び、壮観であるとともに楽しい演出でもあった。

    とにかく全員がずぶ濡れなのだが、主な女優さんたちは、傘を差したり、あるいは雨のきついところよりも微妙に前に出たりすることで、顔をそれほど濡らさず、つまりメイクを落とさずに演じさせるという微妙な配慮もある。

    ロルカの『血の婚礼』にインスパイアされた作品ということで、劇中台詞の引用もあり、また花嫁を奪って逃げるというストーリーも同じなのだが、なぜロルカを下敷きに? の問いの答えは舞台にはなかったように感じた。
    ロルカのままでも(それをこのように解釈しても)いいんじゃないかと思った。

    ホテルや旅館、コインランドリーに、今どきどこにある? のビデオレンタル屋、多くの自販機が並ぶ路地裏。場末のイメージ。
    マーケティングの末路とも言うようなモノとモノに溢れる。

    壊れているトランシーバーで誰かとつながろうとしている少年、ビデオレンタル屋に来て万引きしてることの注意でいいから、人とつながりたいと思っている男、姉さんと呼ばれる女性と、結論が出ないままずるずると関係を続けているビデオレンタル屋の店主、そして花嫁を奪ってきた男、彼らそこに暮らす人々は、自分の心の中にぽっかりと大きな穴が空いているようだ。

    彼らの、その乾きは雨が濡らし続けていても潤うことはない。

    だから、悲劇のラストにつながっていく。
    もちろんそれはわかるのだが、「死」がそれ(虚しさ)を埋めていくモノになり得る、ということに対しては懐疑せざるを得ない。
    そこがどうもしっくりこない。こちらが説得されきれないのだ。

    つまり、装置や効果で驚かせ見せても、未来永劫を流れる普遍的なテーマへの解決がありきたりのような気がしてしまうのだ。
    確かに昔の戯曲の再演であるし、ストーリーを変えないにしても、そのあたりがもうひとつ、胸に落ちてこない、胸に響いてこないのだ。
    そこまで考える必要はないのかもしれないのだが、少なくともそこまで騙してほしいのだ。
    「それしかない」と思わせてほしかった。例えば、いにしえアメリカンニューシネマのように。

    前半、あるいは前半の3分の2ぐらいが雨で、舞台の勢いが削がれてしまったことと関係あるのだろうか。
    つまり、雨がなくなってから、特に花嫁を奪った男と奪われた男の会話などは、とても迫るものがあったので。

    「面白いものを観た」という感覚はあるのだが、今ひとつ「響いてこなかった」ということも同時にある、というのが正直な感想だ。

    窪塚洋介さんカッコよかったけど(笑)。

    そして、外でも雨はやんでいた。

    ……ロルカの『血の婚礼』にインスパイアされた作品ということだが、何もまったく同じタイトルにすることはないだろうと思う。実際紛らわしくはないか?

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    2011/07/08 07:46

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