オバケの太陽 公演情報 劇団桟敷童子「オバケの太陽」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    人は苦しみと悲しみを燃やして生きていく
    桟敷童子らしい、時代と九州へのこだわりに、郷愁とセンチメンタリズムが溢れ出す。
    戯曲・演出・役者・セット等が一体となった素晴らしい舞台。

    ネタバレBOX

    70年代の九州にある、元炭鉱町の話。
    町の土建屋の女性社長・時子と幼なじみの女性・嘉穂が、遠縁の子ども・範一を連れて、夏の間だけ住むということで、元炭鉱住宅だった古い家にやって来る。
    時子は、従業員たちにその古い家を人が住めるように修理させる。

    範一は親を亡くし、親戚の間をたらい回しにされていた。そのためか、言葉を話さず、風呂も入らない。洋服を与えてもすぐに泥まみれにしてしまう。
    範一は、夏休み明けに、施設に入ることになっていて、それまでの間、嘉穂が面倒を見ることになり、この町に帰ってきたのだった。
    範一は、誰にも懐かず、咲いているヒマワリに唾を吐きかけるだけだった。

    嘉穂と範一が入るために家を修理していた職人の中に、元という男がいた。彼も範一と同じように両親、姉たちを次々と亡くしてしまいひとりぼっちになってしまったという過去がある。

    範一は、不思議と同じ境遇だった元だけには懐く。女社長は元に範一の面倒を見るように言う。
    範一はやがて「オバケの太陽」という言葉を言う。

    元にはその言葉を知っているような気がしてならない。しかし、なかなか思い出せない。

    元に打ち解けてきた範一は、「いい子にしていたらいつまでもここにいていいか」と元に尋ねるのだった。元は思わず、「そうだ」と答えてしまう。
    範一は、周囲の大人を感心させるほど、みるみる「いい子」になっていく。
    ところが予定よりも早く範一が施設に行く日が来てしまう。

    そんなストーリー。

    これに元の幼なじみ茂通の妻である、呉紫と元の関係などが絡んでくる。

    現代の元と範一、元と呉紫と話と並行して、両親をなくし散り散りになっていく、元の子どもの頃の姉たちとの話が進む。
    元は徐々に「オバケの太陽」とは何かを思い出し、なぜ範一はヒマワリに唾を吐くのかがわかってくる。

    劇場に入ると、舞台には桟敷童子らしいヒマワリの花が咲いている。そして炭鉱の労働争議の檄文。炭鉱の町の終焉から物語は始まり、瞬時に現代にやって来る。
    セットの早変わりが見事。

    70年代と九州へのこだわりは今回も濃厚で、ノスタルジックな設定にセンチメンタリズムが溢れ出す。
    まさに桟敷童子の世界だ。
    劇中に何度も出てくる、まるで何かを悟ったような、ミシェル・ポルナレフの歌『ホリデー』(別の人が歌っている)が、とても効果的。

    まぶしいほどに咲くヒマワリも、地中に残った、経済発展の落とし子、負の遺産の汚染物質を除去するために植えられている。
    「死」と隣り合わせの、この世界。闇の中に光る「オバケの太陽」。それは時には地中から顔を出して、魂を吸い取りにやって来る。「死」の象徴。
    しかし、それだけではなかった。それは明るいヒマワリと同様に、一面からだけの見方であることがわかってくる。
    そこにあるのは「死」だけではないということが。

    「石炭は人の苦しみ悲しみでできている」「人はそれを燃やして生きていく」という台詞が何度も登場するが、物語のラストはまさにそれであった。
    炭鉱町の忘れられてしまった「石炭」が見事に物語と結びつく。
    その石炭を燃やして力強く走る蒸気機関車がどーんと舞台に現れる。
    そこには子どもの頃の元と姉たちがにこやかに乗っている。あの時の元もそうだったのだ。

    その力強さに重なるように、範一は施設へ旅立つ。
    誰かが、単なる同情で手を差し伸べたりすることなく、必要以上に悲劇になるわけでもなく、範一は元に別れを告げ、「1人で生きていく」ことを強く決意したのだった。
    彼は、苦しみと悲しみを燃やし、機関車のように進むことを決意したと言ってもいいだろう。
    さらに範一は、元に線路がない、つまり、その場から動くことのできない蒸気機関車の絵を残していったのはとても象徴的であった。

    元もその絵を手に、自分の子どものときにしたはずの決意を、範一の背中に見たのだろう。

    ぐっとくるラストだった。

    桟敷童子の良さは、若手の役者たちを、それぞれのスポットライトの当たる場所に押し出し、もりちえさんや原口健太郎さんなどのベテランたちが、彼ら若手を丁寧に支えているところではないだろうか。各々が持っているポテンシャルが高いのにもかかわらず、必要以上に前に出ないところがいいのだ。
    だから、舞台が締まって見える。物語もくっきりと立ち上がってくる。

    それにしても子どもの頃の元を演じた外山博美さんは、公演によって、子どもとおばちゃんを演じられる希有な存在だ。
    範一を演じた大手忍さんは、ラストの表情が忘れられない。力が顔にみなぎって来る表情。
    時子を演じた山本あさみさんの女社長然とした姑感はたまらない。その息子の嫁・呉紫(椎名りおさん)の抑圧され爆発しそうな雰囲気もいい。嘉穂の娘・妙子を演じた中井理恵さんの屈託のない明るさは沈んでいきそうな物語を明るくしていた。

    毎回のことだが、客入れ時から役者全員が入口に立ち、座席への案内やトイレへの案内、荷物の預かり等々をこなす(終演後も)。
    本番前の緊張のときであろうが、にこやかに観客に声を掛け、テキパキと仕事を行う。
    これは制作だけを担当している人にもなかなかできないことであろう。逆に俳優だから、これから公演を見る観客に接しているという気持ちからできることなのかもしれない。
    とにかく、観客としては、とてもうれしいのだ。

    この日は、上演後、ステージツアーがあり、セットの裏側まで見ることができた。舞台セットはいつも丸太が組んであるので、そんな雰囲気なのかと思っていたら、とてもすっきりしていて(よく考えればあたり前なのだが)、情念が噴出している舞台側は、「演劇」なんだな、と普通のことを思ってしまった。
    出演者がとても丁寧に説明してくれて満足。

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    2011/06/21 08:01

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